老化というのはおおざっぱにいえば、失われていく過程とでもいえるのでしょうか。
毛がぬけるなんていうのはまだまだ若い頃から抜けますし、フツーには元通りはむずかしい。
顔のシワなんてもちろん失われた後の痕跡ですね。
心臓にしても血管にしても筋肉にしても若い頃の性能は失われていくのは年取ったひとは誰でもしっています。脳細胞も文字通りまいにちまいにち失われていくのです。一部回復もあると言われていますが、物忘れのようなことを体験すれば脳のかなりの性能が失われていくことは容易に体感できます。
癌なんかはDNAレベルでの後天的な変化で細胞の持っているほんらいの性質が失われてしまったのです。年をとれば何かの癌が体内に一つくらいあっても驚くことはありません。
しかしそのように老化した人間が平均年齢86才と長々と生きるのですから驚きです。
人によっては百歳を越えてしまうのです。珍しいとはいえ,老化がしっかり始まってから50年くらいは生きてしまうのです。沢山のものが失われたはずなのにどっこい生きている。老化が死の隣り合わせというのは明白な誤りです。
もちろん生きているのは残っているものがあるからです。中には、若い人には逆立ちしてもできないような技を持つこともある。
その残っているものは何なのか、いつまで残るのか。
寿命がもう飽和したという気配はどこの国にもありません。何才が寿命の限界とは容易に予測出来ません。
人間は失うものがたくさんありながらも生き続けていく、なにが残っているからなのか、その中でもいったい何がいちばん大切なのだろうか。
その「何」はどのような手段で見つけることが出来るのか。
もおうすぐお盆です。
きょうは夕方から東京から娘と孫三人が名古屋経由で到来します。
さぞ賑やかになるのでしょう。まだ生まれたばかりの孫Kはたいへん愛想がいいとのことなのでわたくしの顔をみてすぐ泣かれることは無いようです。
昨日からきょうの昼まで比良にいて最低限やることをやって戻りました。
収穫はあるのですが、雑草が生えるのが早くて多くて、その勢いに負けています。ナスの剪定をしました。秋なすのために。ことはどこもナスは駄目、と聞きました。わが家でもちょっと食べた程度でした。
木の方も伸びるだけ繁るだけで気にはしていますが、このまま秋までいってしまうのでしょう。
これもしかたありません。
京都の研究室の閉鎖が決まってから、海外のほうから大学院生やポスドクで働きたいという希望の数が増えてきているのは皮肉な現象です。昨日もありました。ずいぶん立派なかたです。