京都の町、きょうは外国人が多い。朝、バス停でも外国人のほうが多いくらいでした。
銀閣寺、それに南禅寺の行き方を伝えました。
それが昼になってきょうは大文字焼きのせいだと気がつくのですからわれながら遅い。
さっそくTさんからメールがあって、育児の件、たいへん役だったとのことでした。それは良かったです。
生命科学者も育児でも役にたつことがあるということです。
昼、盆休みから帰ってきたN君とハンバーグを食べました。周辺は休みが多いし、それに店の奥さんとちょっと言葉をかわすとなごむというか、永年このあたりで昼を食べる人間としては昔を思い出せる数少ない店の一つなのです。
トピックスのリクエストが色々あるのですが、そのうちのひとつ、若い世代に向けての言葉ですね。難問とはいいませんが、でも言いだしたらきりがないので、きょうはごく簡単に。
若い人は体裁を気にしないことですね。自分にあるとおもうもので価値があると思うものの大半は他人にはどうでもいいことなのです。いわゆるプライドも捨てて、そのうえで残った自分が学問と相対するとどうなるのか、こんな風に考えたらいいのでは。有名高校をでて東大のようなどこかの大学のどこかの研究科を出てどこかの有名研究室をでても、たぶんそれ自体は他人が聞いて無価値なものですね。自分が所有したもので価値のあるものは自分のファーストネームくらいでしょ。それすらまともに発音してくれないかも。そんなファーストネームしかない人間が、どんな言葉と行動で周囲の相手に記憶されるか、このあたりが若い時代の掛け値のない存在なのでしょうか。
焦る必要はありません。
変化は若者にとってほとんどall nor nothingで突然やってくるものなのです。
たとえば、博士の学位の公聴会の時の約30分の試練の質問の嵐の時間を抜けたら、次の日にはあの若者すごいじゃないか、こんな能力がある若者がここにいたのか、という評価に変わりうるのです。
急ぐこともないし、慌てることもない、自分の信ずる道を歩めばなんとかなるはずのものです。
ぜひ自分の味方を作りたいですね。若者は。
自分に好意をいだく年長者を作りたいですね。一年にすくなくともひとりずつ作って自分をあたたかい目で見てくれる年長者が欲しいですね。いなかったら、なんて自分ははがゆいんだと思ってください。
敵はつくる必要はありません、出来たらしかたないですが、でも味方はぜひともつくりましょうね。
ただわたくしの場合をいうと、そういう感覚はまったくありませんでした。若い頃、年寄りを怒らせるセリフは名人的にあったと思います。おれはそれでいいんだと、いつもうそぶいていました。
でもそれでも結構年寄りとしょっちゅう酒場かなにかで熱い議論をしていたし、後からおもえばわたくしを弁護する人間はおおむね年長者でした。ですから、好かれようと思う必要はないのでしょう。でも付き合わないと。