50年、高木真一、栗谷川福子、田中洋一さんたち、

今日は午後3時過ぎから研究費の統括のN先生が訪問されます。準備は整ったはずですが。最終報告書も作りました
夜は昔からの知り合いのMHさんがおじょうさんと一緒にエジンバラから京都に来られているので、会うことになっています。

4,5日前に高校の同窓会の記念誌「50年」という表題の部厚い本が送られてきました。文字通り高校卒業後50年経ったのでした。拾い読みしています。本に差し込んであったメッセージに訃報がありました。やはり、重病を経験したり、亡くなられた方がだんだん増えています。
高木真一さん、一年で同級でした。才能のある音楽好きな少年でした。愉快でした。高校以来会ったことがないのですが、外国でずっとはたらきソニーに居たと聞いた記憶があります。栗谷川福子さん、ヘブライ語をおしえありのままのイスラエルについて書物にしていました。同窓会で会ってかなり長時間お話しをしました。体調が悪いと聞いてはいたのですが、亡くなった聞き、驚きました。才能の深い人だったな、と思いました。冥福を祈りたいです。わたくしは同級だった田中洋一さんの追悼をこの50年の文集に寄せました。もう出版されましたので、このブログに載せて彼の冥福を祈りたいとおもいます。

田中洋一君のこと      
田中君のことをおもいおこすと、いつもしばらく涙腺がゆるむような、泣きたくなるような、ウエットな気持になります。なぜそんな気持になるのかよく分からないのですが、でもたぶん高校一年の時に彼が持っていたあのあどけないような、夢見るような顔の表情を思いだすからかもしれません。16才の時代を甘美に思いだせるからかもしれません。その頃、わたくしたちは何にもなっていなかったけれども、一方で何にでもなれるような気持ちで日々を過ごしていたのでした。
あの時代に戻るためには、田中洋一君をおもいおこすのが一番の近道なのでした。すくなくともわたくしにとっては。
田中君は死が近づいた病床でもその頃と変わらないような表情で、同じ声でゆっくりと、わたくしに近況をしゃべってくれました。その脇で奥さまが彼の言葉をじっと聞いておられました。
病室を出たときに、わたくしは彼の回復を絶対的に信じていました。かれこそ、わたくしたちの仲間で一番長生きをして欲しかったのです。過ぎ去ったあの時代の語り部として、彼にはいちばん長生きして欲しかった。
それからあまり時間が経ってない後で、かれの訃報を聞いたときに、最初におもったことはどうしてこう、一番いい人が、一番心のきれいな人間が先に死ぬという昔からの言葉が真実になってしまうのだ、という口惜しさでした。かれとはもう顔を見ながら言葉をかわすことができないという、つらい事実を受け入れることは難しいことでした。

田中君は人を愛する気持ちがとても強かったのだと思います。それを示すいろんなエピソードを思い出します。
その愛の気持ちは、家族だけでなく、わたくしのような友人にも、またわたくしの家族にまでおよんでいたようにおもいます。彼の一生の生き続けるエネルギーと努力は彼が愛した人達への献身だったのだと思います。
かれは最後の最後までご家族のことを考えていたに違いありません。いまから思うと、そのような彼の生き方は高校一年の時からもうあったに違いないのです。

始めての出会いの時に、かれはわたくしに彼の手をみせて火傷の跡なのだ、とわたくしの顔をじっと見ながら言いました。そしてひとことふたこと、彼の両親のこと、つまりいかに両親がそのことについて心を痛めているか、を言ってくれました。わたくしは、田中君はわたくしに親しみの念を持っていてくれるのだ、とすぐ理解しました。子供から大人になろうとする時代に、あの進学校特有の空間の中で、彼のようにヒューマンな気持ちを素直にそして素朴に示せる人間に出会えたのは貴重だったとおもうのです。そして折々にではあったもののその後ずっと同じように長い時代つきあえたことは本当にありがたいことでした。
柳田君、と控えめにいつも語りかけ、そして微笑みながら人の話を聞く、彼のすがたは10代から最後の病床までずっと変わりませんでした。

ここまで書いてこの文章で、田中洋一君への追悼になっているのかどうか分からなくなりました。しかし、この文章が同窓会の冊子に載るのであり、彼を知る同級だった人達が読むのだから、これでいいのかなとも思えたのでした。

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