染色体ワークショップ、匿名の生殺与奪者の社会

きょうは北陸線で北上して山代温泉にいきます。染色体ワークショップです。もう28回目とか。阪大の篠原さんがオーガナイズされていますが、お招き頂きました。あした話すのですが、今日午後の開会から話を聞こう来ました。これを書いているのは、鯖江を過ぎたあたりです。外は雪です。近くの山も頂は真っ白、水田もまだ雪が沢山残っています。そういえば、長いこと、温泉などつかったことありません。昔、現役だった頃、東北大の水野さんとか九大の西本さんとかよくお風呂につかって研究計画を練ったものでした。このワークショップも初期の頃は皆勤していましたが、いつの頃からか足が遠のいていました。久しぶりで楽しみです。

最近は匿名者によるいろいろな活動を聞きます。ネットそのものが匿名者の世界なのでしょう。しかし、匿名ならわたくしたち研究者は長くその経験をしています。というか、匿名文化にどっぷり浸かっているのです。学問のフィールドは匿名者の意見によって運営されているといっても過言でないのです。
学問は結局論文を公表することで成りたっているのですが、論文の評価者たる人物は著者にとっては匿名者です。レフェリーが誰かは編集者とレフェリー自身しか知りません。論文がどのように発表されどのように評価されるか、大げさにいえば研究者が生きるか死ぬか、生殺与奪を握っているのは、匿名の評価者なのです。このシステムというか文化に従えなければ研究者のコミュニティーで生き続けることは困難です。
研究者にパラノイヤ的(偏執的)性格があるとすると、この匿名文化に原因があるかもしれません。この世界、論文を賞めるよりはけなすほうが多いのです。けなすどころか、激しく批判されることも希ではありません。いったい、このひどい批判をするのは、いったい誰なのだ?、どこのどいつだ、と思いたくなるような経験を一度もしない研究者は先ずいないでしょう。詮索をしてもですね、これがまず当たりません。でも疑心暗鬼になるような場合はあります。もちろん当たる場合もあって、学会などで火花が飛び散るようなこともあります。面白いのは、批判は批判と割り切って,友人の論文でも木っ端みじんな評価をするレフェリーは西欧の一流研究者に決して珍しくないのです。日本人は傾向としてちょっと変です。なれ合いのような評価を書いてくることがあります。これは日本社会では予想されることです。欧米でもなれ合いはもちろんあるのですが、絶対そう思われないように細心の注意を払ったなれ合いはあります。日本人ではいったいなにさまと思ってるんだと思うような、過度に厳しい評価を書いてくる人が案外います。これ以上は差し障りがあるのですが、日本人はまだ匿名文化に慣れていない,と思います。わたくし自身は何かのはずみで匿名がばれて自分だと分かってしまってもしかたないと、思うような気持ちでいつも書いています。しかし、匿名の批判についてはもういい加減やめてもいいのではないか、と思うことが最近は多くなりました。匿名をとって実名でも大丈夫なのではないか、とさえ思います。というか、レフェリー制度は匿名という社会原理の陰で、生殺与奪の傾向が強くなりすぎていると思うのですね。

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