名古屋市長、知事、それに市議会解散のトリプル選挙、辞職していた河村氏の完全圧勝となりました。
この「民意」なるもの重大な意義があると思うのですが、また別な機会に考えるところを書いてみたいと思います。とりあえずは、河村氏のメッセージ、
税金を使う人間がいい思いをして,税金を払う人がつらい思いしている、これをなんとかしなければ、というのと、政治を家業にしてはいかん、みんなボランティア精神でやらんといかん。
減税というスローガンしか政治家が本当にコミットして生活をよくする政策はないのだ、
これら三つが、選挙民にはたいへん受けがよかったようです。
河村氏は有言実行の政治家であることは間違いなく日本にとって非常に興味深い存在になってきました。
きょうは手短ながら、なぜわたくしは相撲の八百長に甘いのか、これを説明したいのです。読者のなかには研究の捏造とかに柳田は非常にきびしくうるさいのにいったいどうしたことだ、ぜんぜん首尾一貫してないじゃないかと、思われる人達も多いでしょう。
わたくしは相撲というのは、かなり嘘の部分、フィクションの部分が許されているというか、そういう部分が相撲の持っている面白さ楽しさと無縁でない、こう思います。八百長はもちろんあるはずがなかったのですが、それでもそんな陰の見えない部分をもちつつ伝統の相撲道になったのだと思っています。
嘘というのは、あまりよくない表現ですが、でも相撲の地方巡業や花相撲とかにいけば、相撲というのが肉体のたたかいというよりは、案外とっても愉快でたくさんの「あそび」の部分を含んでいることに気がつきます。あの大きな人たちが、神事にかこつけていろいろ面白いことをやっている、こういう部分が目立つのです。だからここまで日本人に愛されてきたのです
一方で相撲の神事のぶぶんは横綱の土俵入りでしょうがこれを鼻歌交じりや遊び半分でやることはありません。神事であることを本格的に示すためには土俵入りの後で、神さんのまえで「本気」で戦うことも当然です。場合によっては怪我をしたりすることも怖れないような荒業のたたかいもありうるでしょう。しかし、序の口からはじまる、長い時間かかるたくさんの戦いがすべてそんな怪我するかしないか、生きるか死ぬかの勝負ではなくていいでしょう。嘘がまったくゼロの、激しい勝負だけの戦いでなくても別にかまわないと思いたくなるのです。ちょっとリラックス過ぎの意見のような気もしますが、そう思います。相撲は我を発揮するためのスポーツでないはずで、だからガッツポーズもいけないし、ボクシングのような相手を殴って倒すような戦いともまったく違うのでしょう。いちばん大切なことは戦いを奉納する、という精神なのでしょう。
問題は賭博で相撲賭博があって、掛け金があり、それで意図的な敗北、これは非常にまずいし、神事たる相撲の道からいちばん外れた、行為でしょう。片八百長といわれるもの言葉に書くとあまり芳しくありませんが、生身の二人が肉体をぶつけて戦う中に微妙な敗北がありうるし、陰にしかないはずで、くわしくは知りたくはありませんが、そういうものも含めて相撲というものを存在すると思うのです。
近代的になった柔道、あれ西洋的ですが、いろいろ点数つけてやっていますが、あんなものは日本の相撲協会のやっている大相撲は絶対にやってはいけないと思います。ただ、アマチュア相撲なら、国際化を図るのなら、著しく異なったグローバル相撲があってもいいとはおもいます。
研究での不正行為というのは、研究というのは嘘がない、というところからスタートしているのですね。研究者がたがいにレフェリーをしあうつまりpeer reviewというのは意図的な嘘や捏造がないことをはっきりさせるための作業なのでしょう。もしも研究者が自由きままに発表出来るのなら、それならば論文を読む前提に嘘や捏造、ペテンまでもしかしたらあるかもしれん、と身構えて読むことになるのでしょう。
peer reviewのおかげで論文内容は原則としてデータは本当だろう、捏造はきびしいペナルティを課せられるので、例外的にしかないはずだ。こう言うことです。さらに一つの論文に3年や4年、7年8年も珍しくないのです。そんな世界に嘘論文を一晩で書いたりする研究者がでてきたら本当に困る。捏造にきびしくしないと、いまの研究の世界は混沌化する。だから、秩序維持のために論文の捏造には厳格にせざるを得ない。つまり意図的嘘の部分を最小にしよう、これがいまの研究世界の根本ルールなのでしょう。これが崩れるとどういう世界になるのか、信用出来る人の論文しか信用もできないし、読まない、そんな風になるのでしょう。研究が退廃してしまうのでしょう。
いま相撲にきびしい人たち、相撲を退廃させないための方策をぜひ考えてもらいたいものです。
相撲というのは本当に素晴らしいものです。これを無くしたらとてつもなく罪深いことになるでしょう。それこそ過去と未来の日本にたいする「大反逆」でしょう。