憲法記念日ですがいまの日本、憲法どころではない、そんな気分でしょう。
憲法は日本国にとって生き生きした通念ではなく、床の間に飾られた掛け軸(古い表現ですんません)のようなものなので、こういう想定外の国家危機時にはまったく役に立たないのだとおもいます。
それにひき替え、チェンジで大統領になった米国大統領の勇ましいこと。きょうはいいニュースですと前置きして、みずから米国はビンラディンを殺した、Killとはっきりいいました、殺人はこのばあいたいへんいいこと、ということなのですから、米国憲法では大統領みずからが悪人をぶち殺した、やったぞー、と宣言してなんの問題も無いのです。それどころか、米国の大半のひとびとはよくぞやったー、と喜べるのです。
たぶん日本では憲法は床の間の掛け軸ですから憲法的には国家が殺人するのはよくないとか、ありえないとか、どんなに悪人でもちゃんと法に照らして裁判で死刑にすべきとか、なんとかいう公的意見がでてくるのでしょうか。
国家的なコンセンサスは殺人にまであるのがというか、むしろ憲法には国を守るためのものですから、国家を危機にさせるテロリストは国家が殺さなければならない、そういう単純な論理があって、それで国民が満足してしまうという回路があるのですね。
日本にはこの回路はないのですね。
どちらが国家のありようとして当たり前なのか。
わたくしはどちらもありえるのだと思います。
好みとしては、掛け軸にちかいような気がします。
でも自分の近親者がテロで死んだら米国のような目には目を歯には歯を国家自体が遂行する方向に賛成するような気がします。正直なところ。つまり、何千人もああいう方法で殺されるという臨場感があれば国家が報復するのはありうる、というか、それしかないとまで思うのかもしれません。そしてその回路が日本国憲法にちゃんと記載されているかもしくはそうなるのがあたりまえの憲法を持っているのが自明と思えるようになりたいと思うのかもしれません。つまり掛け軸でなく、場合によっては血塗られることもある国旗のような存在であるべき、とおもうのではないか、とおもいます。
しかし、国家というのは厄介なものだと感じます。
国家がなければ、憲法もありませんし、難しい問題のほとんどは消えてしまうのですが。
しかし国家がなければ生きていけないと多くのひとは一方で思うわけです。