宝くじと学問、切りをつける運のつけかた、権威とのつきあいかた

いまJR京都駅のプラットフォームにある待合コーナーで、特急はるかを待ちます。
関空19時半で沖縄へ。もう一日フルに働いて、万歩計も1万歩を越していますし、効率のよい一日でした。

わたくしもまだまだ若者と一緒に仕事をしているので、若者の考えにうーん、それはなあといいたくなることが折々にあります。
これから書くこと、わたくしの周辺の誰か特定人物を思って書いてあるのではなく、一般論です。

学問は宝くじをひくのと似ているけれど、でも当たりくじが当たるまでは引いているというのほちょっと確率なるものを理解しているのか、といいたくなることがあります。
あたるまでは、何年でも論文も書かないし、夢を食べて生きていけませんよ、といいたくなる人が案外多いのです。本人は決して尊大でもないのですが、見た目には宝くじが当たったようなデータが出るまでは、きりがつかない、などとのたまうわけです。これじゃ投じた資本はまったく回収できないのです。いい加減に、見切りをつけてなんら悪いこともないし、むしろそれで次の運の目も開けるかもしれんのに。
こういう見切りをつけられない人たちは全般的に家庭が経済的にあまり恵まれないケースが多いのが不思議です。余裕というか、自分を余裕で見ることが出来ないのか。それに血税を使って、やってるのですから、そのあたりに鈍感なのもよくない。
切りをつけるというのはまあ、人生では一番に大切なことかもしれません。結婚相手だって、自分のこともほどほどにしたらといいたくなるのです。

いっぽうで反骨精神のない学問なんてやる価値があるのだろうか、とおもいます。反骨は誤解されるので、より中立的にいえば、権威におもねない、権威を恐れない、むしろ権威なるものを自分の身近のフレンドリーな存在と思うのが正解なのでしょう。フレンドリーなんだから、否定してもいいんですが、親しき仲にも礼儀あり、やり方を一つ間違えれば逆鱗に触れるでしょうが、でも権威への一番のアプローチは真剣かつフレンドリーなものでしょう。
このやりかたがうまく行かない。権威なるものはあんまり価値を感じません。
日本人では権威にフレンドリーになったと自慢する人たちがいますが、大抵は権威の周辺のゴシップを蒐集するくらいで、そんなもん無意味どころか得るものはなにも無いでしょう。
権威の創造したものの中心的なものを単に賛美したり追従するのでなく、中心的な創造物について、疑問や不完全さを感じたらそれを率直にいうことです。発見とか創造にはかならずどこか傷や未完の部分があるので、その点をフレンドリーに突くことが権威との真剣なつきあいを開始できる一番の道でしょう。そのためには権威の創造したものを換骨奪胎できるくらい自分のものにしようとする必要があります。それでミイラ取りがミイラになれば、それが学問の歴史で無数におきたともいえます。

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