昨夜のワールドカップ三次予選の、北朝鮮戦の快勝、素晴らしかった。
最後の5分かそこらロスタイムに入ってからの日本の攻撃、興奮しました。
よくやってくれた、こういうゲームをやれば日本サッカーへの関心はますます高まるでしょう。
90分待ったあとでの一瞬の炸裂、このためにずっと目をこらして見てきたのでした。正直、選手がみな頼もしく見えました。
きょうはまたまた女子サッカー第2戦です。
台風12号、動きがやたらに遅い、時速10キロ、いまだに四国をウロウロしているらしい。このままではいったいいつ台風が抜けるのやら。24時間後にも240キロしか動かないのか、いつから偏西風の影響をうけるのか、はっきりしません。水害の心配です。まさか沖縄みたいな停電はおきないでしょう。滋賀県のここら辺は日本海にぬける、これからが影響を受けるのでしょう。
昨日の続きですが、年齢を超えた日本語の会話が出来るようになるにはどうするか。
病院で看護師さんが患者さんに話しかける会話は、年齢差を感じさせないようなものでいいものです。
かならず苗字で呼ぶ、おじいちゃんとかおばあちゃんともいわない。苗字を持った一人の人としてあつかっています。
しかし、日本の社会実際には苗字でさん付けですませることはあまりないのですね。
肩書きでよんだり、若い女性だた名前で呼んだり、商店街でもどうようにそこのお母さん、とかそこのお父さんとか、そんな呼びかけです。世界標準にちかい名前で呼ぶ習慣は日本はとてもまだまだすくないのです。
われわれのような研究者社会では、苗字でなく名前で呼び合うので、日本もそうするといいのですが、英語だとスムースにいくのに日本語だとなかなかうまくいかない。
相手が柳田先生といっぺん呼んでしまうと、どうしても敬語が続いてしまう。
柳田さんと呼ぶ人もいるのですが、より平等的な敬語のない会話になるわけでもない。
日本語では、みつひろとわたくしを呼んだあとで、同じ世代の若者のようなしゃべり方をするのはなかなか難しいでしょう。
ですからどうしても年齢を超越した役職などを超越したあたらしい日本語が必要な気がするのです。
ところでなぜ年齢が離れた人たちがつきあう必要があるのか。
それは面白いからです。面白いから話すのであって、面白くなければ話す必要ないでしょう。
ですから、同輩とはなすよりも離れた人たちと話すのが面白いから会話も成立するのです。
わたくしも若いとき、20代の始めの頃、当時の年齢の遙かに離れた人たちと話すのは大好きでした。質問を連発したものだし、自分の知らない時代の若者たちがいかに生きたか、ワクワクしながら聞いたものです。しゃべるほうもそれほど面白くなくても、聞く側にすればすべてがもの珍しく興味津々でした。
その頃、やはり飲酒のあとがやはり盛り上がりましたね。飲酒をするとだんだん言葉もぞんざいになって、相手が教授でも同輩のようにしゃべれてホントに楽しかったものでした。