日本の社会でもどこでも社会とよぶものにはタブーがあるものです。つまり触れないこと触れたくないことが約束事になっているのです。巨大地震、津波、原発大事故とわずか数日でおきた[国難]についても日本社会ではタブーがあるようです。
これまで日本は核について核兵器をもたず、核爆弾の受難こそうけ、常に核保有国の核実験にたいし批判こそすれ自国に問題などあるはずがないという立場でした。
それが3月の福島原発の爆発以降事態は大きく変わったのに、この点を国民共有の知識とする努力がほとんどないのが不思議です。これがタブーの一番のようにおもえます。地球にまきちらされた福島原発の放射能はこれまでの北半球での核実験でばらまかれた全放射能の10%にも達するという膨大なものだといいます。
本当なら、核保有国を批判する資格を失いました。むしろこれまでの日本の主張からいえば謝罪の行脚をせねばならぬ状況です。海に拡がった放射能はフランスや米国のやった太平洋での核実験と混ざってしまいますが、日本はこれら核保有国と同様な核で汚れた国になってしまったのです。もう核について無罪でも純潔でもないのです。福島原発事故は米国でのスリーマイルはもちろんチェルノブイリを凌駕する規模と言われているのに、この規模の点も国民が熟知できるような努力がまったく行われているとは感じません。
触れたくない、触れられたくない、謝罪もしたくない、諸国にたいして責任も感じたくない、こんな風に日本政府や日本人の態度がみえます。自国のなかでの後始末でたいへんなので周辺国のことなど考える余裕もない、これが正直なところなら、今後日本は核に関して他国を批判する資格をすべて失いつつあるということを強く認識すべきだと思っています。
このように考えると核の「平和」利用の平和がペテンでありそんなものはないことを強く批判した一部の理論物理学者はやはり先見の明があったと思わざるをえません。具体的にどのようなことを主張したのか憶えていないのですが、湯川秀樹、朝永振一郎、武谷三男や坂田昌一氏などの主張をもう一度読み返してみたいと強くおもいます。
もう一つのタブーは原発に先祖代々の土地を渡した原発地元の人々は今どう思っているのか、どう悔恨しているのか、その詮索をするのはかなり強いタブーになっていることを感じます。
いまやいちばんの被災者となっている。ある意味、一番苦しんでいる人たちをさらにつらい思いをさせたくないというところでしょうか。
しかし、自責の念、たぶん非常に複雑な自責の念を、今この時点で同じ国民として共有しないと意味が無いとわたくしはおもいます。つまり子々孫々にわたる未来世代を含めての責任と悔恨です。
なぜかというと原発事故自体がいまも進行中で事故が終息したとしてもその後始末はでこれから一世代どころか何世代も継承していかねばならぬのです。もしかしたら、東電の隠蔽体質から見てまだまだ深刻な状況が新たに起こる、再発するかもしれないのです。
原発に土地を渡した人たちが、天真爛漫に渡したはずがありません。核の恐怖がなかったはずがありません。しかも作る電気は自分たちが使うのでなく、まさに[東京]の人たちが使うのです。一抹の不安がなかったはずがありません。世に原発反対運動があることくらい知っていたでしょう。でも国策でもあり、目の前に経済的メリットの事例をたくさん見せられて、メリットが不安をはるかに上待っていたkら、決断した結果が、これです。
わずか数十年でこのような恐ろしい結果、悲惨な結果になり、しかもなにも解決どころか、長期の苦しみが予想されているわけです。未来永劫といわぬまでも何世紀も人の住めない土地を作ってしまったのです。
土地を東電に渡してしまった人たち、町の発展を東電からの金に托した人たちはいま正直何を思っているのか、この点をタブーにしてなにも議論もせず理解もせずでは、日本人の原発に対する思いは定まらないでしょう。
もちろんこれからの国策も適切には定まらないでしょう。