沖縄大学院大学を誰が最初に考えたのでしょう。
知りません。
でも、自民党の尾身前議員、それとかつて東大総長かつ文部大臣の有馬先生のおふたりはかなり前からかかわっているにちがいありません。10数年の歴史があるのでしょう。いちど誰かに聞いてみたいです。
外国人では脳神経分野でノーベル賞受賞され、ロックフェラー大学学長を歴任しその後ストラスブールにあるヒューマンフロンティア(HFSPO)の事務局長をされたウイーゼル先生がまず思いつきます。それと日本側の学者では日本人なら誰もがしっている唯一のノーベル賞生理医学賞受賞者の利根川進博士です。さらには物理学でノーベル賞を受賞されているフリードマン博士をあげれば、まずこの沖縄大学院を作った初期からの功績者としていいのかもしれません。HFSPOは日本政府が多額の基金を支出していますが、この分子と脳という二つの分野での学問興隆をバックした国際組織の創設には中曽根元首相の貢献が非常に大きい。日本側研究者ではかつて東大理学部物理におられた和田先生が思い起こされます。
官僚サイドでは、文科省ではなく内閣府が推進してきました。文科省はどうだったのでしょうか。なぜ内閣府が推進してきたか、それは大きな期待が沖縄県民にあったからとのことです。
沖縄県民は計画の初期段階で真にその実現を強く希望したと聞いています。つまり県民が一致して前向きで実現を希望した本当に数少ない沖縄プロジェクトだったのです。
沖縄のマスコミがこの沖縄大学院のネガティブなニュースを報ずるのに消極的なのは、折角県民がかつて強く希望していたものがそうではないものになっていくのが、報道するのもつらいし、聞く側もつらい、たぶんこういうことでしょう。いまも残った希望があるのです。
そういうわけで、沖縄大学院の人脈はまず歴史的な経過として初期にはすくなくとも県民の強い支持があった。
役所は内閣府が推進しました。もちろん他の省庁と連携したことは間違いありません。沖縄振興のひとつの目玉でもありました。
それに有力政治家やノーベル賞受賞者の国際的な人たちが世界最高の研究機関を沖縄で作ろうということでした。ここで名前をあげてない相当数の人々も関わっていました。ウイーゼル先生利根川博士(初期にはまだ海外におられたのでは)を初めとする海外の有力研究者、主に東京におられた官庁、政治家、東大の研究者などなどの人達が初期の人脈を形作っているのです。かれらの多くは、お目付役でもあり、Board of Governorsとして沖縄大学院大学の進展のバックボーンとなってきたのです。
来週は創設の記念式典がこの新キャンパスで、沢山の人が集まるのでしょう。ゆかりの人たちから見れば、感慨はいかなるものでしょう。
それで、現場の研究者のサイドではどうなのでしょう。
一番古いのは内閣府と科学技術振興機構(JST)が共同で(たぶん)開始したIRP(initial reseach project)が、いまから足かけ8年前に具志川の湾の埋め立て地で始まりました。
4つの研究グループが、公開の応募で選ばれました。二つのベテランと二つの若手グループです。わたくしはG0細胞研究プロジェクトが採択されて、当時かずさDNA研究所にいた島貫さんがグループリーダーとして沖縄に行ってくれるとのことで、彼とごく少数で研究をスタートしました。
他には電子顕微鏡の外村彰(日立)さん、若手のATRにおられた銅谷さん、理研におられた遠藤(現都老人総合研)さんのプロジェクトが採択されました。銅谷さんは計算機と脳を結びつける、遠藤さんは記憶と学習、外村さんは分子、わたくしは細胞ということで、この4つのプロジェクトはある意味、HFSP0の思想とも合致していて、沖縄大学院大学の初期の学問観がでていると思われます。
それで考えると、銅谷さんが常駐で最初からいまもいる研究室主宰者となります。わたくしは、月一回のペースでくる兼務の研究室主宰をしていました。
ここまで書いて時間切れとなりました。
しかし、このIRPを拡大するために、独立行政法人ができて、その理事長にノーベル賞医学生理学受賞者でもあるシドニーブレンナー博士が就任しました。ここからブレンナー博士の人脈が沖縄の現場では増えていくことになりました。
時間切れで、最後は不十分ですが、でもこれで沖縄大学院大学の初期の人脈をわたくしなりに説明したつもりです。
わたくしのコメントはいれず、極力客観的に書いたつもりでもなかなかそうはいってないかもしれません。
ともあれノーベル賞受賞者たちを巧みに利用して実現にこぎつけたのが、政治や行政にかかわる人たちの沖縄大学院大学創設への感慨ではないでしょうか。