日本発の科学技術論分数の伸びが他国にくらべ弱々しくなっているという記事をみました。
文科省の政策研究所のかたが、論文の書き手である国立大学の状況が反映しているのではないかという意見が出ていました。
そうだろう、とおもいます。
論分数の増加とかそのような行政目標は科学技術政策レベルでは存在しないようです。と、同時にまず論文を出すということを目標とする研究室が激減しているのだとおもいます。
その理由は、同じ論文でもどこに出すかで研究室の運命は大きく異なることがいまのご時世、トレンドだからです。
有名ジャーナルにでると、研究費がもらえる、ありきたりジャーナルにいくらだしても研究費はもらえない。これが真実かどうかではなく、そういうふうに日本の研究者の多くは考えているのです。
地道なつましい貯蓄的研究の生活をしても未来の可能性はあんまりない。わずかなチャンスでもいいから、有名ジャーナルであるネーチャーとかサイエンスに投稿したい。駄目でもなんもいいからより名前の聞こえたジャーナルに載るような、論文をだして研究を続けたい。これをわたくしは宝くじ志向の生活と呼びたいです。宝くじは誰でも買えるとおなじように、有名ジャーナルには誰でも投稿はできます。
今の日本、科学技術政策の底に、ともあれ健全な研究をして着々と貯蓄的な研究を奨励するムードはまったくありません。
わたくしはこれはゆゆしい問題とおもっています。この健全な研究が部厚くなければ華やかな研究など一時のあだ花でしょうに。
これは日本にいまや科学技術の政策の司令塔が無くなったことが最大の問題とおもえます。
重点領域、重点研究、などといっているうちに、国立大学の研究室ではほんらいあるべき研究が歯がぬけるように減っているのではないでしょうか。
わたくしは雑誌の編集長をやっていることもあり、普通の健全な論文を投稿して普通に研究生活を送る層が枯渇化している日本を強く感じます。
根本的には普通の研究をしてつましくても長期の研究をしたいと願う若者がどんどん減っているのです。なぜなら、そういう若者の存在をまったく日本は奨励しなくなったからです。
研究が射倖性の高い職業になってしまったのです。
どうしたらいいのか、解決は実に簡単だと思いますが、いまの日本、組織的に不可能でしょう。
つまり解決が不可能に見えるくらい、組織がそうなってしまったのです。