追悼の一日

午後2時46分、東北の方に向かって、比良の家で一分間黙祷をしました。
悲痛ということばしかあてはまらない震災の被災者のことばをいちにち沢山聞きました。からだのなかにその言葉がはいってしまって、出ようがありません。
天皇陛下と皇后が出席した東京での東日本大震災一周年追悼式をテレビでみました。野田首相の式辞、陛下のおことばをしっかり聞きました。
陛下の心臓手術後の初の公務であり、陛下のなみなみならぬ決意でのご出席と理解しました。
おことばも被災のひとびとへの深い理解と同情につらぬかれ、かつ国家を代表して、消防署員などの命をおとすまでの献身的な救護へ最初にふれて、そしてボランティア活動へのねぎらいのことば、助けの手をさしのべてくれた世界各国への感謝のことば、どうしても出席してこれらの言葉を発したい陛下の強い意欲を感じました。
くらくなってから、新聞で岩手県、宮城県、福島県からの三人の遺族代表の言葉を文章でよみました。悲痛ということばがまた頭を駈けめぐりました。
夜になって、さっき歌手の長渕剛が出演した番組を短時間みました。キャスターの古館氏の一年後の感想はという問いに[怒り」、なにもやってくれない日本という国に対する[怒り」と言っていました。そういえば、日中のテレビ番組にはこの怒りがなかったでした。
ひとりの歌手、なんども現地にでかけた人物の一つの言葉はおもい。被災の多くのひとびとは、悲痛の感情とわたくしたちを忘れないでくださいという訴えをつづけていました。控えめでつつましやかなレベルに止まっていますが、長渕剛氏ははっきり[怒り]を前面に押し出していました。
復興という誓いの言葉でいろどられていた野田首相の式辞の対極にある発言を聞きました。
それで、わたくしとしては仕事に戻るきっかけを得ました。

石垣島への旅行と、そのあと大津での一週間の休暇とそのあとの週末、ゆったりとした時間が流れて、わたくしにはひじょうに貴重な時間でした。ながい研究生活、このような意識的に休みをとった一週間はかつてありませんでした。

昨年の震災の日、まだ京都のラボは存在していて、閉鎖のための準備に大わらわでした。
ことし初めに京大の生命科学に博士の学位論文を提出したAさんが作業をしていたら地震の震動を感じたと言っていたのを思いだします。
震災後、わたくしにとってもいろいろなことがあった一年でした。

くもり、あめまじりの天気でしたが、比良の畑のほうはいちおうかたちができました。
手がけていた論文の一つも苦しい段階を乗り越えてやっとこれもかたちがみえてきました。暗い穴から外に出てきた気分です。ここまでくればなんとかなるでしょう。でも小山はまだ乗り越える必要があります。発表すれば、ごくありふれた論文としてあつかわれるでしょうが、でもかけた時間は半端ではありません。

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