比良のわがやのさくらも満開なので、ぱちりと撮りました。
マスコミ関係者から指導者がでてこない理由はいろいろあるでしょうが、たとえばけさの朝日の記者の論説、高橋真理子氏の「女性と放射線、心配すぎる必要はない」、というものも好個の例でしょう。
読むと書いてあることにまちがいはない、被災者のたちばにちかいところで共に心配して、でも心配しすぎることはない、と言ってるのです。善意です。
これある意味定量的表現ですが、じゃどの程度までの心配は適切なのか、なにも処方箋がないのです。しすぎることはない、うまい逃げ口上です。忠告しつつも、過度は必要ない、自分の言説への逃げ道を作っているみたいなのです。
わたくしならばm非常に心配ならば、逃げるしかないのでは。しかし他に行くところがないのなら、もしくはここでどうしても住みたいのなら、住まれたらいいとおもいます、しょせん分からないのですから、としか言えません。でも絶対安全でもないし、かならず危険でもないという類の選択をわれわれはしょっちゅうしています。ある意味そういう選択はなれています。しかし、放射能、これは分からない。長い時間が立たないと分からない。わたくしは、福島から逃げだそうとするひとに、心配しすぎることはない、という表現の忠告はできません。心配しすぎは悪いことではないからです。
逃げことばでいえば、昨年原発で、水素爆発があった頃の枝野氏の「ただちに健康被害はない」、といったことを弁護する意見(福山氏)も同じ新聞で見ました。でも、これもただちにという逃げ口上が入っています。
最近枝野氏は「瞬間」原発が無くなるということばで世の中をまた惑わしましたが、ただちに健康被害はない、とあの緊急時に言ったことが非常に問題なのです。爆発後に、深刻な健康被害が出る可能性があるので、原発の近隣居住者は行政の指示に従って、ただちに避難するように、と言うべきでした。いちばん放射能が高い日にひとびとが無防備にあびたことはこの発言が原因とも言えるでしょう。
アスベストを大量に肺のなかにいれているひとに同様なことをいって、それが当時最善の表現だったといえるはずもありません。健康被害はない、といったじゃないか、というと、直ちにが着いていた、そういう類の逃げ口上で世の中をまどわすのを三百代言と言ったものです。相手を詭弁でいいくるめる、弁護士と新聞記者がその代表といわれたのは明治時代だったのでしょうか。
いまも毎年1000人がアスベスト被害で死に、2025年頃には3000人くらいになるのではないかといわれています。
福島原発の被害はまだわからないがここまで一人も原発放射能被害での公認の死者も健康被害者もいないのです。でもだれも喜んでいない、のです。ここを指導者になりたいマスコミと政治家はよく理解すべきです。30年後もゼロであっても国民のほとんどだれもよかったよかったを肩を抱き合ってよろこぶというふうには決してならないでしょう。
高橋氏のケースでも、深刻に悩んでいるひとたちひとりひとりが、専門家と相談してはなせることができるような社会にもっていくような方策を考えるべきなのです。深刻に悩む人にはみなそれぞれ何らかの理由があるのです。相談と話し合いのさいごに、悩む人がみずから心配しすぎることはないのかな、といったら、無言でうなずくくらいのことです。
れいれいしく書くようなことではありません。