40歳の頃、つづき

40歳の頃のはなし、もうすこし続けます。
その頃、健康診断で、血糖値を初めて測ったら、かなりたかいことが判明。HbA1cが6.5くらいありました。でも毎晩家に戻るのが10時近くで、それを変えるのは無理なので(ラボから家が遠かったので)、週末の運動くらいしか改善策が無く、しかも身体には悪い碁もすきで、結局65歳に改善を決意するまでそんな血糖値が続きました。体重も40歳のころは一番多くて75キロは越えていました(伸長180センチ弱)から、まあメタボといわれるべき状況でしょう。米国にDNAの単分子の映画を見せにいったときに、とうとう宿舎で尿管結石の激痛に見舞われ、救急車で病院へ、膀胱に石がある状態で、学会発表したものです。医師にあんたはデスクワークがきついから、これから何度も石の出産をやるぞとおどかされましたが、幸いその後ありません。
これがわたくしの厄年の出来事で、痛い目にあい、またメタボ病前駆者の称号も持つこととなりました。糖尿病は合併症がおきたらアウトですから、よくぞその後30年もなにごとも無しでこれたのか、悪運というかそれでもそれなりに一生懸命運動、減量努力したのが良かったのかです。
それで40歳の頃は、仕事も身体も薄氷の上の状態だったのでしょう。結果は、しばらくして、成果も見えだしてきて、性格的にも状況的にもしゃにむに進めざるをえなかったのです。家では、子ども3人が小学生、幼稚園でいちおう最低限ののふれあいはあったはずですが、いい父親とはとても言える状態ではなかったでしょう。
非常に助かったのは、学科の先輩教授がおまえはまだ学問がんばれ、ということで教室主任とかの雑用職は一回パスしてもらえ、学部の教授会にも閉会30分くらい前に出るような態度習慣でも許してもらえたことです。いまでも感謝しています。
ラボのメンバー、家庭、同僚にしょうがない奴ながら寛容の目で見てもらって、日々を送れたのが40歳の頃でした。
当時の学生は、あの頃はテーマがちょっとしかなかったなどと、最近いっていました。わたくしから見ると山のようにあったのですが、学生の目からみればそんなものだったのでしょう。
地盤も看板も無くしゃにむにやった40歳の頃、もうあんなエネルギーは二度とでてこないでしょう。いまだって、たぶん40歳のみなさんは大差の無い状況におかれているに違いありません。

この頃を思い返すと、運鈍根はほんとだな、と感じます。
たしかわたくしもその40歳の頃から、結局努力だけじゃなんかたりない、やっぱり運かな、などと言っていたような気がします。自分もそうだし、かなりの数の学生さんの教育を始めだしてそんな印象を持ちだしたのでしょうか。

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