沖縄復帰40年、向田邦子没後30年

沖縄の復帰40年ですが、お祝いムードは希薄です。
当然とおもわれます。40年目の今年、沖縄にとってうれしいニュースはほとんどないのでしょう。
沖縄の基地の多さがほとんど変わらないのは、本土のエゴによるものだという、意見これも当然でしょう。でもその気持が本土のひとびとにほとんど伝わらない。本土では沖縄には膨大な国費を投入している、だからもう十分だろうという意見すらあるでしょう。しかしかれらはその国費の大半は首都圏やほかの本土地域に回流してしまっていることも知らないのでしょう。沖縄に来る旅行客の大半は、来る前にすでに必要経費の大半を払ってしまっているのと似た現象です。これがいったいいつまで沖縄で続くのか。じわじわ良くなるのとじわじわ悪くなるのがほぼ拮抗しているのが、沖縄県人の実感でしょう。思い切り変えるのなら、本土と独立の経済社会圏になるための方向かいっそのこと琉球共和国を夢見ることになるのでしょうか。
その40年後の現状ですが、いっぽうで県民はひとりずつ年を取っていきます。復帰のときを実感できる県民も減りつつあります。
じつはわたくしも結婚後40年たちました。沖縄復帰の年に結婚して京都に家庭を持ち始めて、いまは沖縄県民です。夢にも思わなかった人生の展開です。それだけすごい長い時間がたちました。最初の準備的な10年の研究生活、それから40年の職業的な研究者生活でした。復帰後40年が長いとすれば沢山のことがあったとすれば、個人レベルではわたくしにもこの40年同じように色々なことがありました。

向田邦子さんが台湾での飛行機事故で亡くなって30年たったことをしりました。
その作品の鮮烈な存在感はいまでもまったく失せてないので、10年前に亡くなったと聞いてもそうかもしれないと思うほどの、時の空白を感じさせません。
でもそれはわたくしの錯覚かもしれません。鹿児島で子どもの時に同級生だった女性の記憶が記事に出ていましたが、81歳とありました。そうか向田邦子は生きていれば81歳、つまり51歳で不帰のひとになってしまったのだ、とため息がおもわず出てしまうのです。父親役をやったフランキー堺さんいつ亡くなったのだろう、と記憶がぼうぼうとしてしまうことに気がつきます。
向田邦子の世界にでてくるひとたちが正真正銘の近代日本人であったと実感を持って言えるひとはだんだん少なくなるのかもしれません。しかし同時に向田邦子のえがく日本人の存在感は没後30年たってもまるできのうもきょうもそこかしこにいて生きているような気持にさせるのです。

この30年の時間の近さと、40年の時間の遠さのちがいはいったい何なのでしょうか。

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