桃栗三年といいますが二本の栗の木がせっせと実をならせています。猿飛くんにことしは食べられずでしたので、2本目の木からの収穫を妻と一緒にやりました。
例の長い棒の先に刃が付いたので枝を切って収穫しました。思いの外に多いので時間がかかりました。落ちたのは長靴と木ばさみでいがを割って,中から実を取り出します。
開いたのも三分の一くらいありました。それで食べても実においしいのです。
収穫が終わった後で、今年は花をつけているビワの木の日照を増やすために、栗の一本の大枝を落としました。
他の小枝なども落としたり、雑草なども払っていたりしていたら、突然頭にコツンと衝撃がありました。
痛い、と当たった眉間に手をやったら血がべたっとついていました。
落としそこねた栗のいがが、実入りで頭を直撃したのでした。
痛くてしばらく、おとなしくしていましたが、血も止まって。
たいししたことはありませんでした。
そしたらこんどは手の甲がぴりぴりと痛くなりまして、傷もはれもないで、なにかのかぶれのようです。いまでもぴりぴりしてます。なんなのでしょうか。
しばらく前のこのブログで、わたくしは幼少時に、塚原朴伝の達人ぶりに感心して、こういう年寄りになりたいと書きました。それが、いがが落ちてくる気配も察知できないのでした。食欲版の久米仙人になってしまいました。
閑話休題。思いだしたので、忘れないうちに書いておきたいのが、山中鹿之助のことです。
和光の理研で講演をしたあとの飲み会で,若い人に山中鹿之助て知っている?と聞いたら一人知っていました。父親がおりおりに話題にするといってました。
わたくしとほぼおなじ世代の父親のようでした。今の日本では忘れられた人なのでしょうか。地元ではそんなことはないでしょうが。
わたくしは子供にいったことはありませんが、子供の時から大きな影響がありました。
漫画ではないが絵付きの講談本のようなものを読んでいたのでしょう。学校で習ったはずがありません。
甲冑を身につけ、あたまに兜をして(はちまきかな)、馬に乗って、抜刀をして、夜遅く山の中で、中天に高く上がった月(満月でなく三日月)をみて、心に激しく、祈る。こういう情景が子供の心の目の前に浮かびます。
幼児というかそれよりちょっと上くらいのわたくしが10才に満たない時期でしょう。1950年のころなのでしょうか。
『願わくば我に艱難辛苦(七難八苦?)を与えたまえ』。こういう言葉にしびれるようなメンタリティの子供だったのです。我々の世代というかわたくしはすくなくとも。
「憂き事のなほこの上に積れかし、限りある身の力ためさん。」という言葉もありましたが、なんといっても願わくは、これがきわめてのヒーロー的な言なのでした。いまだったら、若い人に自虐的といわれてしまうのでしょうか。
主君の尼子家の再興のために身を投げ出して、毛利との戦いに明け暮れ、三十代でこの世を去る、これがわたくしが子供の時にあこがれたヒーロー像の祈りの姿なのでした。
この幼児の原体験的な祈りのすがたは、たぶん当時の大人の一部が子供にしかけた「教育の」の一つだったのでしょうか。でもわたくしは今でも日本人の祈りの姿の第一にどうしても山中鹿之助が出てきてしまうのです。でも大震災の復興のためのイメージには出てきません。ぜんぜん違うのです。ちがったたたかいのための祈りなのでしょう。この七難八苦の意味は。
70才にして、率直にいってこの山中鹿之助のことばはわたくしの学問をするうえでの折々の心の支えになりました。
敗戦直後の日本が尼子で、占領している米軍が毛利というほどのあざといアナロジーは頭にありませんでしたが、あの当時の日本、「再興」がキーワードだったことは間違いありませんでした。
それから、60年経って、もう山中鹿之助をおもいだす日本人はほとんどいないでしょうが、わたくしの学問観の根底に、祈りの姿があるとしたら、やはりいまでも山中鹿之助になってしまうのですね。
不思議なことですが、これも三つ子の魂の一つのバージョンでしょうか。
わたくしとしては平和ニッポンの中での山中鹿之助ですから、害は一つもなかったといえます。