博士号取得時の父母懇談、馬鹿馬鹿しくてーー(続き)

KT君の学位授与式がきょうあったとかで、彼とご両親が昼頃にラボにおいでになって、しばらくお話しをしました。
昔的には父母懇談ですが、大学院のおわりの博士学位の時ももう若者いうには立派すぎる年齢だし、親子といっても中学高校の時とは大違いでしょうが、やればやったで意義があるものです。
親にしてみれば子供の現場を見て、そこの「親方」にあって、百聞は一見にしかずでしょう。

このあいだの馬鹿馬鹿しくてーーーのはなしの続きをかかないといけません。

そのやってられないとか、しんどいとか、そういう感覚はトップに立つ人達でも折々に持つ感覚でしょうが、それをいってしまえばおしまいよ、ということですから普通は決していわないものです。わたくしも家ではよく言ってましたが、ラボ内でもときたまいってましたがさすがに公にはいってなかったはずです。でもついつい泣き言を言ったかもしれません。
そこで最近発見した真理ですが、たいした真理ではありませんが、この馬鹿馬鹿しくてやってられないというのも、結局一生やるわけではないので、そう思うのだとわかったのです。
たとえば毎日トイレに行きますが、もしも人生の中で10年間だけトイレに行かなければいけない、残りの期間は行かないでもいい、植物のように排泄しないで人生をおくれるとしたら、トイレに行くのもときおり面倒でやってられん、馬鹿馬鹿しいと、おもうでしょう。やはり死ぬまで排泄とは縁が切れないと、毎日毎日、小だと一日になんども行くのですが、これを馬鹿馬鹿しくてやってられない、という感覚をもってるひとはまずいないでしょう。
つまり生きること自体を馬鹿馬鹿しい、と思うことになってしまうからです。生きること自体は当然のこととして、わたくしたちは受け止めてますから、わがままな感覚になれるのは、やはり任期のあるようなことに対してです。
そう考えると、任期のある仕事、そういう仕事はやはりそういうやりたくないという、感覚をもちがちなのでしょう。
わたくしは、研究に関しては大学生の頃に始めて、最初の2年か3年の頃に迷いがあって馬鹿馬鹿しいと思った時期がありましたがそれ以降はまったくありません。天職というか死ぬまでやりたい、と思うようになりましたが、それいがいのはっきりした任期のあるものはすべて、馬鹿馬鹿しくてやってられんと、時折に思ってきました。まあ、わがままというか任期のあることからくる自分に対する一種の甘えというか、慰めというか。

そういう点でいえば総理大臣がそうおもってもしかたないでしょうね。
しかし、皇太子妃殿下にはそういう方向では思っていただきたくないです。

そして気がつくことは、天皇陛下はたぶんずっとお生まれになって物心ついてからずっと国事のことをお考えになっておられてきたので、やはり別次元のおかたなのだな、と納得するわけです。つまり、日本のことを考えるのが、天職で、任期はひとたびなればもうずっと続くわけですから。誰かが、日本のことを一番深く、そして真剣に考ええておられるのは陛下だろう、と書いていましたが、わたくしも同感です。
本当に大変なお仕事です。われわれ民草はのほほんとして、ぼやいたりしていても、陛下にはそういう日が一日もないかとおもうと、申し訳ないとおもうのは、わたくしが変なのでしょうか。
そういうことが可能かどうかわかりませんが、平成天皇にはぜひとも伝記的なかたちでの記録を残してもらいたいと希望します。平成天皇が過ごした時代を考えれば、もっとも希有にして貴重な歴史的なものになることはいうまでもありません。そしてまさに任期がないかたちで、日本という国をずっと国の象徴的元首として過ごされた期間にお考えになったことを残されれば、日本という国の成り立ちを考えるうえでももっとも重要なものになることは間違いないとおもうのです。

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