送別会、曲学阿世の輩、人の始まりはいつから

暖かくなりました。こんどの週末こそは屋外での作業がしっかりできますように。

きょうはA君の送別会です。百万遍角の傍でやるとか。カウンターに一升瓶が林立している最近できた店です。メンバーが去るときに寄せ書きする恒例の色紙にもわたくしもなにか書きました。
A君は三島の遺伝研にポスドクで移ります。
彼はなんどか触れましたが、ここ2,3年でいい意味で大きく変わりました。三島でも活躍してくれるでしょう。彼の場合には、若者にありがちな鬱屈感が、うまいこと取り払われました。研究成果が出たことと自分探しがある程度すんだことも相まったのでしょう。人柄の良さと積極性がストレートに表にでてきたのでいい感じになりました。ボスのNさんにはちょうどいいくらいのタイミングで、お渡しできるような感じです。

曲学阿世の輩(きょくがくあせいのやから、と読みます、念のため)とはかつて吉田茂首相が自分の政策を批判した東大学長だった南原繁を批判したので一時有名でしたが、最近はどうでしょう。学を曲げて、世におもねる(阿る)、の奴という意味ですね。
いまは学者の大半は世におもねているので、そうじゃない人を探すのが難しいかもしれません。南原氏も吉田氏も両方ともに気骨がありましたが、あの頃はマスコミは政治家を批判ばかりしていたので、南原氏のほうがマスコミに人気があったので、吉田首相の言葉がでたわけです。

こんなことを書いたのも何日か前に、人の始まりは受精卵なのかどうか、どこかの自称哲学者がドイツではしっかり社会的合意を得ているので、日本も充分議論して社会的合意をえたらいいのではないか、とかいうのを読んでその時、なぜか曲学阿世の輩という言葉を思いだしたのです。
要するに、日本では合意など得られるはずがない、という自明のことがどうしてこの自称哲学者にはわからないのだろう、ということです。哲学者ならそんなこと分かるでしょうに。それをあたかも合意が得られるかのような、雰囲気をふりまくのは、わたくしには曲学阿世のやからです。
フランシス・クリックというDNA二重らせんを発見した英国の科学者は、ある時から米国にうつりましたが、その一つの原因はかれが社会的な失言(!)をしたからと言われています。
つまり、人の出生は出生時から1週間か1か月、調べて問題がないことが分かってからでもいいのではないか、と発言した(どういう状況かは忘れました)ら、当然ながら猛烈な社会的な非難というか批判を浴びたのです。彼は誰でもそうしろと言ったのでなく、重篤な先天性障害があった場合に、ということも言ったのですが、それで認められるはずがありません。マスコミの標的となり、それを機会に米国に移り住んだと聞いたことがあります。受精卵を人と見なし人工流産を殺人と断罪するのとは正反対の意見です。
クリックは主張したと言うよりは、そういう考えもあるという、科学者にありがちな仮説をいったのでしょうが、それすらも不謹慎ということで批判を浴びたものです。人工流産は殺人ではないとしたら、どの時期から殺人になるのか、ちょっと考えても答えが容易にでるのでないことは明らかです。
ある意見をいうと、社会的に抹殺されるばかりか、身体的にも抹殺されるかもしれない、危険な状態になることは元祖哲学者ソクラテス以来周知のことです。

人の始まりを本気になって議論しようとおもったら、自分がクリックのようになるかもしれない、もしくはソクラテスのようになるかもしれない、という覚悟が必要だと思います。

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