静かな社会の果て、さすらいの賭博師

日銀総裁がいなくても代行がいれば、世の中はなにも困ってないようです。大事態が生じるとかいう意見はやはりためにするものでしたか。
次はガソリンの値段なのですが、4月になるとなにが起こるのか、安いガソリンを求めてスタンドに消費者は向かうでしょうが、みかけはたいしたことがないように、見えるのでしょう。本当はたいへんなことでも、世の中が静かに対応しているのは、どうなのでしょうか。
不可解な世の中になっているのかもしれません。
でも動物のなかには、死ぬときは誰にもしられずに消えてしまうというのがありましたが、いまの世の中はそんな気分に似ているのかもしれません。ひとりずつ、静かに退場して、そして誰もいなくなったというような気分の社会なのかもしれません。そういう社会でのごく少数(と思いたい)人達がおこなう犯罪がグロテスクに聞こえてくるのは致し方ないのかもしれません。
むかし、よく聞いた「連帯」とか言うのが完全な死語になりました。あのことばはいまや年金世代になった、団塊世代が青年の時によく叫んだものですが。欧州では復活している言葉なのですが。

最近、自分の研究の先が短くなったので、よく自分の研究の特徴をふりかえる事があります。このあいだの評価の前後にはいろいろ考えました。なぜ、考えるのか。残された時間にいかに良い成果をあげるためには、自分の特徴を最大限にいかさねばならないからです。
そこで出てきた、一つの結論は自分は研究では賭博師みたいなものだったのかもしれない。いちかばちか、白か黒か、丁か半か、のるかそるか、そういうのが非常に好きだったな、いまでもそういう傾向は強い、と思いました。
ただ刹那的な賭博でなく、一度決めたら、数年はそれにひたるというか、賭けるという面で、執着心はつよいというか、ぶれない、そのあたりが研究者としての長所かなとおもいます。それから、根本的には自分も含めて人間嫌いかな。賭博師にはなんとなく人間嫌いが多いような気がします。そういう点で、わかいころに賭博師をしながら世の中をさすらうような人生に共感するというか、そういう類の映画を見ても飽きないというところはありました。
ギャンブラーと言わないのは、鉄火場というか、不法行為にちかい賭博にきょうみがあるので(やったことはないが)、五月晴れの競馬場でのギャンブルなどは自分には合いません。若いときに阿佐田 哲也の麻雀ものを耽読したのを思いだします。
そんなことで、この賭博的傾向の強い自らの性向をなんとか、残された時間にうまく利用したい、そんなふうに思いだしています。

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