国家と個人 Nation and individual

このあいだ、佐藤優氏の「国家の罠」を読んだときに、自分の20代半ばの頃をなんどか思い出したものです。その理由がうまく自分で理解でき、整理出来たら、また書きますと述べました(6月12日)。この佐藤氏は外務省のラスプーチンとかマスコミで騒がれた人ですが、ムネオハウスの鈴木議員と絡んで逮捕され非常に長く拘置された方です。本自体は一級の面白さで、この方の思想と知識の深さに感心しました。また、現代希に見る硬骨漢と見受けました(本人は天狗と言ってますが)。わたくしとしては、まだうまく整理されていませんがちょっと書いてみたくなりました。

国家と個人の関係で、久しぶりに考えが触発されました。40年も前には、政治的な議論となると若者のあいだでは、必ずこういう対立的な議論が多かったものでした。一方で、わたくしは、30才の外国からの帰国時に、この問題にいちおうの個人的決着の答えを出して、その後は、その答えの路線に忠実に従って何十年もやって来たのだということを思い出しました。同時に、それによってこのような対峙的な考えを自ら封印したことも想い出しました。

わたくしは、25,6才の頃は大学院生で、海外留学前でしたが、政治思想的なものはノンポリラジカルと区別されるようなものでした。しかし、教条的ではなく、実存的な考えに強く共感したもので、一方でベトナム戦争の強い影響で反米左翼的な傾向があり、また60年安保からの後遺症もあり反代々木(共産党)的だったとおもいます。政治的な議論をするのは好きでしたが、だからといってこれという政治プランをもっていたわけではありません。当時の若者というか学生は、自分を国家と対峙する個人と捉える傾向が強く、一方で個人の主体性をいかに確立するかという議論が最も重要なものだったはずです。

「国家の罠」では、官僚であった佐藤氏が現代日本においてまさに、国家と対峙する個人になったわけで、逮捕前、逮捕後、拘置中、裁判にいたる彼の考えの変遷は、わたくしにとって最高にスリリングでした。自分も彼のような立場になったらどうするか、降参して罪を認めるか、それとも彼のように、徹底的に「国家」と対峙するか、問題として随分リアルに感じたものです。現代の日本では、国家と個人の関係が先鋭に問われるのは、まさに国家の枠内に入っている人々なのかもしれません。
そういう意味で、日本はかつてのニクソン大統領時代のWatergate事件の時のディープスロートなる人物に見られるように、官僚トップとか中枢の人物のなかに、あらたな国家と対峙する個人が出現する時代が来てるのかもしれません。

我々が、20代半ばの頃には、国家と対峙する人物が官僚にいるとは到底思えず、学生という社会のなかでの先端部分にいると思い込んでいたものです。実際、わたくしはこの本を読んでいるあいだ、なんどかある人物のことを思い出しました。Y氏、Yさんというのはしっくり来ないのでY君とします。大学時代顔見知りで、ときおり山など一緒に行った仲間です。彼は物理専攻でしたから同期の理学部生とはいえ、そう交際があったわけではありません。しかし、わたくしにとってはとても気になる人物で、かれが社会参加、社会における闘争を語るときの断固たる口調には相当な迫力がありました。しかし、平素は、穏和で柔軟性が高く、ゆったりとした生活感をもっており、たいへん感じのよい人物でした。そういうわけで、わたくしは彼に敬意を抱いておりました。当時のわたくしは非常に生意気で人を認めようとしない頃でしたから、そういうことは滅多にないことでした。
その頃、権力の打倒とかいうスローガンも、当然対立概念から生まれてくる発想でした。国家がよくならなければ自分もよくなり得ない、という考えが多くの若者に支配的な考えでした。しかし、ノンセクト共闘系といわれる学生達は自分の頭だけで、善悪理非を考えようとしたわけで、いろいろな政治イデオロギーに影響されていたとはいえ、自立性自体はかなり高かったと思われます。
1967年10月にわたくしは大学院を休学して渡欧したのですが、出発の頃、すでに大学紛争の兆候は東京では歴然として出てきており、T大本郷構内も不穏な空気に包まれていました。留学後、手紙などで日本中の大学での大規模かつ長期の紛争を聞いてはいました。しかし、当時情報からは隔絶していたので(わたくしは18ヶ月間一度も日本語をしゃべりませんでした)、実感はまったくありませんでした。
ある日いつものカフェでの朝食時に読む町の新聞、スポーツ新聞的なものの一面トップ記事に安田講堂が煙に包まれた写真と一緒にY君のヘルメット、マスク姿の写真がでていました。見た瞬間、彼だと分かりました。新聞にもフルネームでこの若者が怒れる学生のリーダーだと記してありました。その後の潜伏、逮捕、長期の獄中生活によって彼が人前に姿を現さなくなる前の最後の写真だったのでしょうか。
当時、国家に対峙する個人として、多くの若者が自分の信条に忠実に突き進んで行った、つまりそのような生き方を貫徹(当時の言葉ですが)したのでした。Y君以外にもたくさんそのような人たちがおりました。その中で、Y君が最も有名であり、その生き様に多くの人々が関心を持つもの当然でしょう。彼らの多くはぎりぎりのところで、決断せざるを得ない状況があったであろうことは想像できます。それが厳しいまでの二者択一的であったことも確かだったと思います。国家の持つ論理がこれら若者を長期にわたり捕らえたのでした。
わたくしは、30才の帰国した頃は、元気いっぱいで、後ろめたい気持ちはありませんでしたが、一方で自分を幸運と思うだけでよいはずがないことも感じてました。4年間の国外生活で、政治的ものを自分の人生の選択肢には決して入れないことを自ら誓ったものでした。一方で秘かに自らをpatriotと規定したものでした。

Y君は予備校で物理の講師をしていたこと、最近集大成的な物理学の作品によって、大佛次郎賞など受賞されており、注目されていることも知りました。もう35年以上も会っていないので、懐かしい感じだけが強く残ります。

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