昨夜家に戻って最初に聞いたのは、猫のことでした。町の入口にある獣医さんで、朝から夕方まで点滴をしたとか。かなり腎臓機能が低下して、さらに白血球の増加もあるとか。この獣医さん、ほんとうに動物の気持になりきれる人らしく、愛情ゆたかで、妻の評判はたいへんよいのです。
やはりぐったりしていますが、でも体にすこし生気が戻ったような気もしました。人に換算すると93才とかですから、家猫ではありますが、まじまじその表情と姿をみているうちに、生命の尊さというか、一種の尊敬の念が湧いてきました。今朝になるともうすこし、回復して、新聞をよむわたくしの膝の上によおろよろしながらも乗ってきました。きょうもまた点滴に連れて行くとのことです。
昨日の豪雨、京都でも、すごかった。神戸では、町中を流れる川でみず遊びをしていた子供達が鉄砲水で犠牲とか。心が痛みます。山に降った水が短時間で鉄砲水になるのは谷川では常識ですが、大都市での川も同様になるのは、山沿いの土地が住宅地となり、コンクリート面が増えるからだという専門家の言でした。
バスで東山三条を降りたときの雨のあまりのすごさに、なぜか谷崎の細雪にあった、沛然とした雨、という表現が思いだされました。中学校だか高校の国語の教科書で覚えた難しい言葉です。驟雨という言葉もありますが、こちらはそれでもよく見かけます。年をとると、昔のことが突然思いだされます。それに対して、最近会った人たちの名前を憶えるのはたいへんです。覚えてもすぐ忘れて、それで二度と戻ってきません。
多くの博士研究員が苦境にあるとのことが世の中に浸透しだしているようです。人材を社会が適切に処遇できない、もったいない、惜しい、という発想でこの問題を見ていただけると、よい流れが産まれるかもしません。朝刊での榎木(間違っておぼえたかもしれません)氏といかたがもっともなことを論じていました。ある程度以上の年齢の博士研究者を社会が見捨てるというか切ってしまうということがどれほどまずいか、という意見にわたくしも同感です。さらに、後段にあった、博士研究員も自らの創意工夫で働く場所を探すべき、という部分の意見にも同感でした。
基礎科学の博士研究員は総じて相当な薄給で経済的に恵まれなくても一生懸命はたらくものです。日本社会がこういう人たちをぜひとも維持して養っていって欲しいものです。
わたくしは自分でも言うのはなんですが、科学のトレーニングをしっかりと学んだおかげで、学生さんの教育はもちろんのこと、生活の万般においても生命科学者の生活と信条を忠実に実行してきたので社会的には変人の部類に属するでしょうが、その影響は周囲に相当あるはずです。もちろん、いいことばかりではないでしょうが。
専門家としての博士研究員の社会における存在意義は社会の多様性を生みだすし、投資に見合うものになるはずだとおもうのです。