通勤時にあいかわらず数独をやっていますが、激辛というのの最後の段階で、難易度が10とかになっていて、難しさがいちだんと増しています。2つくらいのコマを埋めるのに、行き帰りの通勤時を使うことがあったりしています。あと4つくらいしか問題が残っていないので名残が惜しくなってきました。2巻を買いたいのですが、どこで1巻を買ったのか思い出せません。どこかの大きな本屋のことは間違いないのですが。
朝早く起きてデスクワークをしているのですが、ここのところ4時台になっていてちょっと早過ぎるような気もするのですが、やはりこの時間がいちばん思考というか、試行錯誤的な思考に向いているようです。一日に一つくらい何かを決めて先に進む感じです。年を考えたらしかたないのでしょうか。
息抜きに理髪に行きました。火曜でも休みがあるのですが、第2,第3が休みとか。しかし、聞いたはじから忘れてしまうのがかなしくかんじます。
ある堅い雑誌の表紙に糸川英夫氏の写真が出ていました。日本のロケット学の父なのだそうです。まったくそのとおりでしょうが、この方は復権したのでしょうか。
日本のロケットいうか、ペンシルロケットの創始者としてわたくしでもよく知っています。晩年は何かテレビ番組にでていたようですが、そちらのほうは何も知らないのですが、この方が東大を無理矢理に辞めさせられたときのことは強く記憶に残っています。
詳細は資料もないので、書けませんが、1967年に東大を突然辞任して、そのあとはロケットの現場には出てないのでしょうか。
わたくしの記憶では、どこまで正確かはわかりませんが、新聞で予算の使い方か何かで不正があるかのような記事を書かれて、もしも辞めなければ、官憲が乗り出すかのような、書かれ方をされたような記憶が残っています。
つまりわたくしは海外留学にでる直前でしたが、同じ大学にいて、このようなおそろしいというか、ひどい目にあって、経歴の頂点から奈落に落ちるような目に会うのか、怖いこともあるものだという、学者としての幼児の原体験的な知識になりました。わたくしになにがしかの用心深さがあるとすれば、この時の知識がもとにあるかもしれません。糸川氏と寺山修司氏にたいする激しいマスコミのバッシングは忘れられません。
今回のこの堅い雑誌の紹介文にはそのあたりのことはただの1行も出てきません。1967年に東大を辞職してロケットから完全に離れたのですが、そのいきさつも無ければ、かといって復権的な記述もありません。これはどうしたことなのでしょう。
それで、ネットでも調べたのですが、このあたりことについて、何かを発言しているような人も居ないようです。ずいぶん、口の堅い分野なのだな、と思いました。
ですから、日本のロケット学の父、と言われて当然な糸川氏はある日とつぜん現場を辞めてしまった、こういうことです。亡くなられて、もう10年ちかくなります。
写真をよくみると、なんとなく憂鬱そうな顔をしています。
研究者の顔としてはよいものだと思いました。研究者はだいたい大半は憂鬱な人生をおくるものだという、なにかそのような真実かそれとも錯覚をわたくしはもって生きていますので。