ロシアがグルジアでやっていることは、かつての日本が満州中国でやっていたこととよく似ているようです(リアルタイムで経験したことは無いので単なる憶測です)。
というか、満州での日本のやり口にたいする当時の世界の反応を理解しようとしたら、たぶんこの現在のロシア、グルジアを類似ケースとしたらいいのではないでしょうか。
ロシアのナショナリズムはいまやたいへんに興隆してかつての一等国意識がロシアの民にむくむくともちあがってきているようです。
ロシアが近隣諸国に嫌われるのはこの一等国いしきです。
どこの誰がこのロシアの「横暴」に一撃を与えられるのか。米国しかないはずですが、その米国は北朝鮮に振り回されても何もできないでいる状況です。
しかし、誰でもしっているとおり、米国は突然怒り出して、北(朝鮮)爆でもなんでもやりだしかねない素地があります。時間の経過とともにとんでもないことが起きる可能性があります。いわゆる挑発的行為がどこまで放置されるかです。日本が真珠湾攻撃に追い込まれる前に、いったいなにがどんな日本の行為が周囲の許容の限界を超えてしまったのか、そのあたり歴史に詳しい人にヒントをもらいたいものです。
少数者のことを考えてみたいとおもいます。
少数者というのはどれくらいの割合のことをいうのでしょうか。10人に1人というと、わたくしの考える少数に入らなくて、だいたい20人に1人くらいか、それ以下が少数者とおもっています。
生まれつき、先天的になにか問題をもって生まれてくるひとたちはだいたい30人に1人といいます、それくらいが少数者の一つの目安かもしれません。
生き物は誤りが少ないようにできているといっても詳しく見ていけばそうも言っていられません。
自然流産というのがあって、母親の胎内で受精卵が生まれてから、体の外にでて出生になるには長い時間と複雑なプロセスがあるので、かなりの頻度があります、だいたい自然流産の頻度は15%くらいといわれています。少数とはとてもいえないかなり高い頻度での「異常の存在」なのです。むしろこれは正常と言ってもいいのでしょう。つまり、異常は正常の一部なのです。
母の体内でしかその生をまっとうできなかった人(の胚)たちは決して少数者でも異常者でも本当はないのです。
人口流産つまり堕胎は出生数と同じという統計があるそうです。本当なら、本来生を受けてもおかしくなかった人たちが出生者に拮抗するくらいの数があったということになります。こういうことは、常にこの世の人のことを考えるうえで知識としてもっていた方がいいと思うのです。
とくに、女性が水子とも呼ばれる、生を受けられなかった「こたち」に深い気持を寄せるのはよりよい社会をつくるうえでの基盤の感情として大切に思う必要があるとおもうのです。もちろん男性もどうようなはずですが、でも自らの体内に宿る生命の感覚を男性が所有することはなかなかできません。
少数者について書こうとして、意見を開陳する段階になかなかいかないのですが、日本社会は最近少数者に対してどのような文化になっているのだろうか、そんなことを感じています。
体や目に障害をもつひとたちへの配慮は町中でもされてきていますから、見かけは格段によくなっているのでしょう。車いすでも外にでやすいとか、改善はされています。しかし少数者とは身体だけに限りません。文化とか社会的存在の少数者も沢山いるのです。知能的な少数者もおります。
少数者のやることは、見て見ぬふりをする、そういう文化というか社会は日本ではまだ存続しているのでしょうか。
誤解されるのを覚悟で言えば、やくざというのはもう日本にはいないのでしょうか。やくざはもうみんな暴力団になってしまったのでしょうか。やくざはたぶんまだいるのでしょう、でもかれらは少数者として生きることは、建て前としてできなくなったのでしょう。
法の下に平等ということでわれわれの頭はどのひともみな同じ権利を有するようにかんがえがちですが、少数者には特権のようなものがあってもいいのでは。
たとえば先住民族には特別な権限をあたえるのとおなじような意味合いで、少数者にはなにがしかの特権をもってもらう。
そのひとつに、社会が見て見ぬふりをする少数者たちの行為のようなものがある、こういう考えはいまの西欧的かんがえにはなじまないのですが、世界中で古くからあった習わしでした。
このようなものをまた21世紀的に復権できないものか。
ここできょうは時間切れとなりました。