昨年晩秋だったか、それとももう12月に入っていたか、ある朝研究室にいたら突然地震を感じた。震度2か3くらいか。かなり強い。しばらくしてまたおなじような地震である。地震と地震との間もわずかだが揺れている。変だなと廊下の反対側の部屋の窓の外を見に行くと、大きなクレーン車が今出川通りに近い構内の廃屋を忙しく壊している。大きなバケツの先端でコンクリートをぼかんぼかんと叩き壊そうとするのが地震と感じたわけだ。
この騒音と振動の日々が何日か続いて、長い平屋のコンクリート造りの建物は完全に壊されてしまった。当たり前のことかもしれないが、どこの誰からも、この間、現場に至近距離にいるわれわれに対して、なんの説明もない。しかし、大学ではしょっちゅうこういうことはあるから、別に驚くこともない。そのうち、数日を経て、突然ぱたりと工事が止まった。
同時に(と思えたのだが)、百万遍の角の石垣の上のところに、急ごしらえのやぐらが組まれて、この工事に対する抗議の演説が始まった。帽子をかぶった青年が流暢に演説をしている。横断歩道を横切るときだけしか聞かないので彼らの主張が十分分かったわけではない。研究室の窓はこのやぐらと直線距離で100メートルもないだろうが、窓が二重に防音になってるので、研究室からは演説は聞こえない。
この工事は、百万遍の角に新しい門を作ろうとする当局の計画にもとづいていたらしい。この石垣にはいつも大きな立て看板がたくさん置いてあるので、門が出来れば、立て看板も置けなくなるし、そもそも関係者学生などの同意を得てないし、このような門を作るのはいけないと言ってるのだろうか。そうならば、それも、そのとおりだ。
当局はだんまり作戦に出たらしい。工事をストップし(2月には再開するとの連絡は事務関係者にはあったらしいが)座り込み学生を刺激しない。この寒さである、石垣の上で座り込みといってもそのうち寒さで音を上げるだろうと。ともあれ、京都の冬の深夜は、とても寒い。もちろん昼もだが。
あの吹きさらしの石垣の上でいくらこたつと石油ストーブ(らしいものが下から見えた)があるとはいえ、また屈強な若者とはいえ、とてもじゃないが深夜と早朝に風にさらされていたら、地面のほうからの寒気も含めて、寒くてそのうち退散するだろうと。わたくしも当局の人間ならそう考えただろう。
しかし、なんとかれらは冬を越してしまった。もう桜の花が咲くのに2週間と言うところまで来てるが、まだ石垣の上のやぐらは無くなるどころか、人はいつもいるし、賑やかなものである。いつの間にか居住性も高まり、本棚に本がたくさん置いてあるし、コーヒーも飲めるらしい。大きな時計もおいてあるので、時間を確かめるのにも便利だ。石垣はかなり高いので、辿り着くのには、急なはしごを登るのだが、70才以上のおじさんがこたつに入って若者とおしゃべりをしているのを目撃したこともある。京都新聞にも好意的に出たのか、けっこうの名所的な感じになってきている。百万遍、石垣カフェ舞台というような感じにいまはなっている。わたくしは特に主張に同感したわけではないが、この寒さを頑張り通したかれらの心意気には十分に好意的であった。
当局はどうするつもりなのか。予算的には3月までにお金を使わないと、工事は完了できないのではないか。
最近、当局が作ったと思われる、工事完成図なるものが、周辺に何枚もぶら下がっているのに気がついた。その図をよく見ると、構内の土地をかなりの長さで削って後退するので、歩道が拡がり、そこで新たな低めの石垣を作るかのような絵になっている。新しい門というか入口はあるのかないのか分からないような絵になっている。現在と工事後という2つの絵で比較して、何も困ることは起きない、歩道が広がっていいじゃないか、とでもいいたいような図になっている。計画してる門を見えにくくしてるのがちょっとずるいな、と思ったのだが。
この図を昼飯の行き帰りに何度か見てるうちに、はっと気がついた。
どうも構内の削る部分の今出川沿いにある、10本以上の大木をほとんど切り倒すのではあるまいか。
もしもそうなら実にけしからん、とわたくしは突然強い怒りを覚えた。この銀杏と松等の大きな木々をなぜ切り倒すのだ。そもそもわれわれが去年北部構内から引っ越してきたこの建物は人様には決して見せたくない外観をしている代物なのだ。
これらの木はけなげにもこの建物を外部に見せないように立っている、非常に役にたっている木々なのだ。たとえ役に立って無い木々でも、構内の木々をやたらに切り倒すのは言語同断。そもそも大学の紋章は楠だろうに。構内の木を大切にするのは校風ではないのか? と次々と、怒りの種が湧いてきた。
というわけで、わたくしはいまや石垣カフェの人達とはぜひとも工事反対の点で、連帯したい気でいる。(右の赤い看板の当たりの石垣上にいま石垣カフェがある。見たい人は現地までどうぞ)