高橋Qちゃんの選手引退、天才を理解できないし遇し方の分からない伝統

昨日、マラソンの高橋選手Qちゃんが選手引退涙の会見がありました。わたくしもニュースでその涙のシーンを見ました。
このブログで触れたことがあるように、彼女をアテネマラソンで出場させるべく特例をもうけられなかったことは本当に残念でした。
そのことの生みだした連鎖の中に野口選手の北京マラソン前の過剰な練習と怪我があるというのが、わたくしの以前の感想でした。

今回の感想は、日本はむかしから、天才を理解できないし、天才の遇し方も知らない、ということです。言葉は、悪いですが、世相を天才しらずが牛耳ってるのです。

高橋Qちゃんはなん百年でも語り継がれうるようなマラソンランナーの大天才、という考えが日本人の間にまったくなかったのはなぜでしょうか。
とてもそうはみえないし、なんどでも彼女程度の選手が現れると思うのでしょうかね。
そうなのかもしれません。しかし、時がたてばわかるはずです。天才は滅多に現れません。天才は時代がつくるのです。ある時代に一人しか現れないようなものでしょう。天才を天才として遇しなくとも、高橋Qちゃんの名前は残るでしょうが。ただ同時代の人間としては、もうすこしあと何回か彼女の華やかな走りぶりをみたかったなとおもうのです。

しかし、世界中こういう話はたくさんあります。ベーブルースの程度の選手は何回でも現れると思ったチームはその後長い間、たたりに苦しみました。
モーツアルトもダビンチも人類の歴史で一回だけだったし、源氏の紫式部も一度だけなのでしょうか。同時代の人はどうおもったでしょうか。

イチロー選手は米国にいって天才らしい野球生活をおくっています。このあいだも、北京のリベンジでは困るという、明確なメッセージで、小太刀の一閃の切れわざで、監督候補を葬りましたが、あれを日本選手が国内で発言したら、たぶん大変なバッシングを受けたでしょう。中日の落合も天才といってふさわしいのに、すべてにバッシングを受けたものでした。

パンテオンではありませんが、偉大な日本人の殿堂をつくるなどというのは、やはり非常に陳腐で、どうしてもひとりずつに神社を作る必要がありそうです。

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