数週間前にチェーンソーを買いました。昔のことばで言えば舶来製ブランド品でした。なかなかの優れ物でそのパワーに驚きました。手押し車いっぱいのストーブ用の薪を作るのに10分もかかりません。ただ、チョークで最初にエンジンをかけるところがどうもまだうまくいきません。なんども紐を引くことになっています。
これで、エンジン刈り払い機、耕耘機とエンジン付きの機具は三台目ですが、どれも重宝というかなくてはならない生活の必須機具となりました。こういうのも昨日話題にした中学の職業家庭あたりの教育があったので、気軽にそしてそれなりに安全対策に気をつけてやれるわけだと思っています。
最近の新聞で高校の英語はすべて教師が英語しかしゃべらないとかいう授業になると見ました。高校は義務教育でないので、色んな方法を試す余地があるべきだとおもいます。レベルや能力によって、やり方を変えないといけないと思うのですが。それに、いまの高校の先生でずっと英語の授業を英語で出来るんですかね。
わたくしはたしかに自分の年齢としては英語を生活の必須技術としてよく使うので、しゃべるのも日本人としては下手というわけではありません。しかし、しっかりと自分のやったことや考えたことを表現するうえで、わたくしの英語力なるものはかなりの弱点です。研究者としてのいちばんの弱みを聞かれたら、即座に英語力だと答えざるをえません。
わたくしの英語というのは、根本的にはカタカナ英語が年と共にすこしずつ変化してきたものです。中学校ではまったくカタカナ英語しか出来ない先生ですから、発音などただのいちども正式に習っていません。中学校でやらなかったので、アルファベットをしっかり発音できないのはわたくしの英語学習の点で言うと痛恨の極みです。
そういえばタイプもいちおう5本の指をそれぞれの手で使ってやっていますが、いちども正式に習っていませんので、いわゆる弾丸のようにはキーボードを叩けません。早くやるとミスタイプが沢山出ます。これも残念でした。
それで、下手な発音、それにともなうヒアリングの困難さ、それと日本語を英文に直すもの誰にも個人的に習っていないこともあり、すべてが自己流なのです。
それですから、自分ではこういったつもりでも、そう取られていないことはこれまでなんどもあります。込み入った話になればますますそうです。
この、下手なりに固まった、ある種の進歩の止まった英語力を抱えてずっと人生を歩むというのが、正直な現実です。それでも生涯学習すこしでも進歩をしようという気持はまだあります。わたくしの英語を直してくれる親切な英ネイティブな編集者には感謝する一方で、ひと言でひどい批評をする、研究者に腹が立つことがなんどもあった人生でした。
中学の時に、クラスの女子生徒でものすごく流暢な発音をする(とおもわれた)子がいて、この子が教科書を読むと、教室中がざわめくというか、冷やかしたいけれども本当に真に迫った発音なのか、それがわからない、という経験がありました。彼女はたしか魚か酒か乾物かを売っていた商店のお嬢さんでしたが今ごろどうしているでしょうか。
大学に入って、フランス語を取って、田辺貞之介先生が完ぺきなカタカナフランス語ですごい親近感を感じたものです。いまでも実をいうと学会でカタカナ英語をしゃべる日本人がいるとなんか、ホッとします。この会場でこの英語をちゃんとわかるのは日本人だけだな、とおもうのです。
そんなことで、わたくしは26才から海外に生活しましたが、しゃべるのはすこしましになりましたが、書くのはほんとにひどいもので、学術論文を書くのはなんとか出来ても、普通の英文がなんとかましに書けるようになったのはいったいいつ頃でしょう。ほんとに英語を何十年もやってからでしょう。
それでも、自己流の英語でここまで来たのですから、もしも最初に強力な英語の先生についていたら、どんなに良かったことでしょう。子どもの口の中に指を入れて、舌の位置を矯正するような先生についていたら、良かったに違いありません。そのうえでの、カタカナ的な英語をしゃべりたかったものです。ですから、高校の授業が全部英語というのはその後の人生で英語を使うことになる人々にはとても良いことでしょう。