昼めしはZにF君といったら、なんのことはない研究室の女性が皆おりました。大きな丸テーブルで一緒に食べました。名物のレッドカレーでなくきょうは名前は普通のビーフカレーを。おいしい。このZは当研究室では絶大な人気があって、老いも若きもおとこもおんなも、昼も夜も行ってます。北部構内時代にはそのような場所がまったくなかったので不思議な場所です。本棚に置いてある本を見ると、その趣味の不統合性に目が点になるのですが、あとでマスターと奥さんの本の二種類に分類されることを知れば妙に納得。
TK君の論文の校正がメールで来たのですが、彼は今日沖縄に出発したのですが那覇空港で連絡できて夕方までには校正がすんだので、向こうのいってる締めきり時間にぎりぎり間に合いました。わたくしはもう何年も前から、校正チェックは勘弁させて貰ってます。
きのう送ってきたNBB誌8月号のインタビュー記事についていた、わたくしの写真を見ての感想ですが、だいたい自分の顔というのはたぶん男性はあまりしげしげとは見ないものだとおもいます。
わたくしは自分では骨相学なるものを長年やってて、人の顔というか人相についてシニカルな意見を言って喜んでるくせにその分析の対象は自分には向けてません。もちろん分析したくないからですが。でも大抵の男性は、ひとの顔はしげしげみるけれど自分のはちらっとしか見ないではないですか。案外そうでもないのかな。それでわたくしの場合はときおり長いひよろひょろした髭が一本顔のあちこちに残ってたりします。しかしT博士のように鼻毛が1cm以上鼻からでても気にしないほどではありません。
だいたい自分の顔などというものは、朝洗顔して髭そるときとか、風呂に入って頭をシャンプーする時とか、トイレの後で手を洗うときしか見てないですね。電車の中でじーっと手鏡をいつまでも見ている若い女性はあの間何を考えているのか、それが不思議なのですね。たぶん若いとまだ自分の顔が珍しいのでしょうか。
わたくしはいくら思い起こしても自分の顔をじっと見たような気がするのはスキーの後でひどく日焼けして、顔がヘンなふうにただれた時だけです。
この年になると、自分の顔を写真で見ても何も感じません、ただ不思議なことに印刷物で見ると常に何となくがっかりします。つまらん顔をしてるな、と自分でおもいます。
それで今回のNBB誌での自分の顔写真を見たら、なんかかなりアホっぽく(関東の言葉で言えば、馬鹿っぽく)見えたので、ちょっとショックを受けました。秘書のTさんに、これアホに見えない、と聞いたら、そんなことありませんよ、と笑いながら返事をする。でもわたくしはしゃべるときいつもこんな顔をしてるのと、聞いたら、それは珍しいですね。それですこしほっとしました。何でこの写真を選んだんだろうと、言ったららTさんは先生が何かお話しになってるという感じですよねという。わたくしはなんか釈然としないのであるが、まあいいかと思った次第です。この年になって、自分の顔についてちょっと学んだ次第です。
妻はよくわたくの顔がだんだん母親に似てきたといいます。わたくしには全然そう思えないのですが(もともとある程度似てるのは当然ですが、老化するに従ってだんだん似て来て最後は母親と同じ顔になるのは率直にかなり嬉しくないので)、でもある瞬間のわたくしの顔つきが母親に良く似ているのでしょう。それがどんな瞬間なのか、鏡で発見するのは難しいでしょうね。妻は文学的センスがそれほど無いので、わたくしは助かってます。そんなこと、深層心理的に毎日講釈をうけてたら大変です。わたくしとしては、父親に似てる気がしてるのですが、そういってはくれません。見てる顔の場所が違うのでしょう。