小関治男先生が亡くなったことを知りました。
小関先生というよりは小関さんというほうがずっと実感があるのですが、もう長いことお会いする機会がありませんでした。元気にしておられるとは何人かのかたから聞いていたのですが。
理学部一号館の生物物理学科で隣の研究室におられていた同僚教授の期間はながかったのですが、お亡くなりになったと聞くと、最初にお会いした頃から、わたくしがなんとか教授になれた頃までの、10年間の記憶がたくさん思いだされます。たいへんお世話になった先生であり大先輩が亡くなられた、という感が深いのです。
小関先生というと、微笑というのか、穏やかな声でフフという笑いがすぐ思いだされます。
紳士であり、争いごとや声を荒げるようなことはまったくありませんでした。その正反対のわたくしなどは、いまから考えるとよく相手にしてもらえたものと、ありがたくおもうのです。
小関節などといわれた独得の包容力のあるしゃべりかたで、多くの人たちが小関さんのアドバイスを求めにいったものでした。
わたくしも困ったことがあると、隣なものですから、ずかずかとアポイントも取らずに教授室にいって相談に乗ってもらいました。いやな顔もせずに、研究の話でも雑事でもゆっくりと聞いてくれて、そやけどなあ、という感じで別な側面のあることをいつも教えてもらったものです。本当に古き良き時代の仲間として遇してくれたものです。
小関さんは、いつも大事なときには陰でサポートをしていただいた、父ではなく、年の離れた兄のような存在だったとおもうのです。
そんなエピソードをひとつ。
わたくしが助教授でもさっぱり教育的でもなく、また学生にもまったく人気がないのを小関さんは皆川先生などとかなり心配していたようでした、小関研究室にいた沢山の俊才のなかから近藤寿人さんをそそのかしてくれて、近藤さんがいっときにわたくしと一緒研究をしてくれたものです。
近藤さんがあまりにも優秀なので、わたくしがほとほと感心していたら、小関さんがにこにこして、この世代が将来の日本を背負うのでしょうね、といっていたのを思いだします。
もうひとつ。
小関さん麻雀強かった。岡田さんのようにひんぴんとは一緒にやりませんでしたが、たまにやると年季の入った遊びをしてきたことがよく分かりました。寺本英さんの素朴な麻雀とはひどく異なる芸風で大阪人の面目が顕著なのでした。あのなあ、あがったみたいや、とかいって点棒で麻雀パイを倒す手つきがもう年季を示していたし、やすいかなあ悪いなあ、とかいいながら、ああドラが2つあったか、ああそれに裏ドラまであるのか、わるいなあ、倍万かあと含み笑いをされてしまうと、どうもまた小関さんにやられたか、などとよく戦意喪失したものです。
最近では分子遺伝学という言葉を使う人はほとんど居なくなりましたが、小関さんは英国で学位をとられ、日本の分子遺伝学の発展に尽くされ、その学問人物の懐の深さで多くの若者たちを教育したものです。わたくしもそのうちの一人であることはいうまでもありません。