Su様、返事を書きたくなるようなコメント頂きました。あなたのような読者がいてくださると、励みになります。
教養と職業人になるためのツールとは別物という観点を明確に大学教育に入れて欲しい、教養教育は自由に好きなことをやりなさい、ツールの方の教育はある程度必須的でなおかつ達成度もきちんと見る、そうして欲しいと願ってます。ですから、必須的な教養科目などあるはずがないとおもってます。理系の人が好きなら好きなだけ文系講義を聞いて何も悪いことがあるはずがありません。英語を教養でなく、ツールとみなすのなら、いまの英語科目とは自ずとやり方も受け方も異なるでしょう。基本的な教養教育は高校ですんでるはずでしょう。だから学生ひとりひとりに選択をまかせ、必須はないほうがいいでしょう。
教養とは,2年や3年で得られるものでなく、長年の学びと体験でよりよいものを身につけることができるのではないでしょうか。宮大工の西岡さんという方の書いた本を読むとこのかたが現場での最高クラスの大工さんだろうと言うことがわかると同時に大教養人だということもわかります。このかたの教養はすべて木、木材との関わりに根ざしてるのですね。教養ある人は社会のどこにもいますよ。大学の先生がおしなべて教養が高いなどというのは迷信にすぎません。
若い18才や19才の学生さんは、教養に関しては将来のために色々なものに接して土台を広げていけばいいじゃないですか。ツールの方の教育については京大は学部毎にかなり違いますが、全体としてほったらしていて、これまでそれなりに成功していたのに、最近慣れないこと始めてかえってよくない効果が出てるとわたくしは見ています。
実はこの教養教育、K大学新聞でインタビューを受けてかなり言いたいことを述べましたので、機会があったらぜひ読んでください。編集の人の話では、来週でるというのですが。
哲学については以下のように考えます。
哲学をなぜ勉強するか。哲学を必要しているからですね。必要と感じなければ勉強する義務もなければ必要もないでしょう。あなたの言うように、鼻にかけるような哲学は確かにありがちです。
わたくしの場合にかぎらず我々の世代までは第2外国語も含めてかなり真面目に時間をかけて哲学も勉強しないといけないという学生気分が強くありました。仲間うちでの会話で話しが通じなければ困るので、概論的知識と自分の好きな学派がないと「困るという必要性」はあったと思います。当時は自己のidenityと思う若者は多かったのですよ。
わたくしの大学教養での哲学はまったく意味不明な言語をまき散らす先生でしたから授業に出ての知識などはほとんど関係ないと思いました。わたくしの場合高校での思想史の勉強あたりで、哲学に興味を持ち始め、ソクラテス、デカルト、カント、ヘーゲル(難解すぎますが)あたりの定番の後にルソー、ボルテール、ディドローあたりまで来て腰が下ろせるようになった。でも、実際には上で述べたあまり高級でない理由で(つまり議論を戦わせる材料を見つけるために)本を読んだこともよくありました。前の晩によんだ本のネタで次の日の夜に二級酒や安ウイスキーなどをのみながら議論をよくやりましたよ。そういう必要性もあったのです。だからわたくしはいまのあまり議論好きでない若い人にはまったく勧めません。でも哲学でなく、古典で発見出来る人間像はとても素晴らしいです。ですから、古いものに接することは強く勧めてます。古いものとつきあってると、やはりだんだん賢くなるとおもいますよ。現実を生きる力がえられるかどうかは分かりませんが、古典を心の中に持っていると、よりよい人生が待ってるような気がします。
わたくしが20代後半にどのような心象風景を持っていたかはたしかにあのバルセロナの旅での短いエッセーに書き尽くされているとおもいます。それに50代半ばのころの心境もこのあいだ再掲した水流れる国に生まれてでほぼ言い尽くされてると思います。あなたがこれらを読んで何かを強く感じて頂けたのなら、分野は違うけれどもわたくしの学問観の中にある何ものかはあなたに伝達されたと思います。
それじゃ、その間の時期はどうなのかですが、それをどう書くか実はとても難しいのです。このブログでもみなさんは気づかれないかもしれませんが、ひそかにすこしずつトライしているのですがまだあまりうまくいってません。もちろん自分が何を考えていた(いる)かはよくわかっているのですけれども、それはあまりに個別的ですし、また生々しいというか、止揚されてないというか、他人には伝達されにくいのですね。もうすこしトライアンドエラーが必要なのだとおもいます。
人の評価は棺の蓋を閉じたら出来るというのと似ていて、研究の発展と評価も過去のものになってしまってから、出来やすいのでしょうか。そうだとすると、わたくしのやっている分野はまだすぐには過去のものにはなりそうもないので、どうしたものでしょうか。これから何年もずるずると走り続けるのはしんどいのですが、至近距離で分野の変遷を見ていくのは楽しいですから。それに最近新規のbeginning of scienceのネタもできまして、ほどほどにしなさいという自制の声が耳元で聞こえるのと同時にどんどんやれという無責任な声もかなり大きく聞こえてます。このあたりの判断はすべてわたくしの「教養」で判断してます。研究者としての判断ではまったくありません。これがわたくしが、研究は教養でやるのだ、と長年にわたって言い続けてることの真の意味です。