快晴さわやかな日、無魂洋才の戦後、国民的リーダーの不在

比良の家で朝起きたら、快晴さわやかな日であること、昼過ぎには温度も相当あがるのではないか、と予想しました。
京都ラボの面々が久々にやってきます。昨日おとといの二日間の研究報告の余韻もあるし、食べたり、自然に親しんだりしながら、研究のこれからを話題にするのにまさに最適な日和です。
妻にはもうしわけありませんが、休みですが大車輪で働いて貰っています。もちろんわたくしも。

あさ畑をみまわると、まだ種類は少ないですが、どれも朝露の中でピンと葉をのばして、姿勢良かったです。気分のいいことです。
朝日に光る比良や蓬莱のやまも穏やかそうな山容をみせています。
木々も思い切り葉をつけましたので、あまりにも混んでいる木はすこし間引かないと。

朝10時半には手伝ってくれる数人が来るので、それまでにすこし別な仕事もしておきましょう。ケージの外に出てしまったブドウの幹を切ったりです。

敬愛する五木寛之氏は日本の戦後は無魂洋才だったといっています。
そうだったのでしょう。ほぼ同感です。
氏はだから駄目、といってるのではありません。それでいいところは沢山あった、戦後の発展も無魂だったからよかったのかもしれない、と思ってるかもしれません。でも平成の20年にまでなって、無魂洋才の限界がとうとう社会のありとあらゆるところで現れだした。
そういうことを言いたいのではないでしょうか。
わたくしにはそう感じます。
いま日本では、だれもが知っている社会のリーダーが本当に枯渇しています。
五木寛之氏は稀少な、社会的リーダーのひとりです。わかいころから長い時代を、いつも社会の注目をあびながら社会にとっての意義のある発言をしています。
俗なことばでいえば、こころざしが高くて、根性が座っていて、千年以上の長い時代のスパンでいつも自分の発言をみずから検証している。そんな風に感じます。
なんでこんなに尊敬できる社会的リーダーが減ってきたのか。分かりません。
実際にはかなりおられるのかもしれません。
ただ、現状のマスコミを利用することにウンザリしているのかもしれません。

中国から帰ってきたあと、テレビで聞く厳しめの辛口発言をする何人ものコメンテーターの発言などをきくと、まるでたいこ持ちの意見かというように聞こえるのです。だれかに阿っているとしか聞こえないのです。これはどうしたことでしょう。
素晴らしい人物は沢山いるようですが、でも入試における一芸の才人のような人たちが多くて、人生での一芸に優れた人という印象です。
身を捨てても平気なひとなどマスコミには出ないのでしょう。

国民レベルでの、真の意味での指導的リーダーなどいまの日本では生まれる環境がしょせんないのかもしれません。しかたがないので、野球のイチロー選手のようなかたに代行して貰っている、というのが現状なのでしょうか。芸能のほうでは、SMAPだったのかもしれません。
無魂洋才、奥の深い言葉です。

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