神田日勝記念館

日曜日、大雪山高原温泉から旭川への帰路、河東郡鹿追の道の駅の隣に、神田日勝記念館なるものがあるのに気づきました。馬の絵がロゴになっていました。はっきりした記憶は無かったのですが、どこかで聞いたような名前でした。息子と妻にちょっとこれ何なのか見たいと言って、一緒に見に行きました。道の駅の目の前に建物があります。
やはり神田日勝は若くして死んだ、才能があふれるほどにあった洋画家でした。32才で亡くなりましたが、残した絵は見るものの目と心を奪うものがありました。ある意味、佐伯祐三や青木繁たちよりも心の奪われ方は強かったような気がしました。つまり、素晴らしい才能の広がりを予知させるのに、未完の程度が強くて、哀切の感が強くなります。あと数年の時間をかれに与えることは出来なかったのか、と思うのです。長い時があれば、「巨大な存在」にもなりえたかもしれません。

ほんとに見に行って良かったでした。

驚いたことに、神田日勝は生まれが東京の練馬区で南町4丁目とあります。学校は開進第二小学校とあります。わたくしの卒業した小学校と同じです。年譜によればわたくしより4才上なのですが、下に書くような事情で同じ小学校に通った時期はありません。
南町は旧称ですが現住所表記もありましたので、グーグルの地図で調べると、なるほどわたくしは南町3丁目で小学校をはさんで反対側になります。誰か級友がいて何度も遊びにいった地域ですが、もう60年前ですから、だれかおもいだせません。このあたりにも小学校以来言ったことがありません。
神田日勝は練馬が激しい爆撃にあった頃、終戦の年、まさに終戦直前に北海道のここ鹿追に父母、兄と家族ともども移ったのでした。その後、東京に戻った気配がありません。

4才上とはいえ、わたくしは父になんども展覧会に連れて行かれた頃もあり、ほぼ同じ時代の日本の洋画事情は体験的に知っていますので、神田日勝が独立美術系の若手の絵描きとして北海道に住みつつ、時代の潮流を感じながらもみずからの道を模索していたことがよく分かりました。

思わぬところで、まったく思わぬものを見るという経験をしました。
年をとっても若い頃のロマンを強く思い出せることができることが分かって、嬉しかったでした。

ここ鹿追のひとびとが、この記念館をみずから作ったことはとても素晴らしいことです。

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