談合も天の声も必要なのに

夏の野菜がだんだん収穫できるようになってきました。昨日は果物のほうではびわが収穫できて、約70個とれました。こぶりですが、味は果物店にまけません。豆類のあとは、ニンジン、大根、カブがとれています。ズッキーニ、キュウリ、ナスも。

最近談合というのは絶対やってはいけない、とかいう雰囲気ですが、でも本当にそれでいいのでしょうか。
談合の語感はすっかり悪くなってしまいましたが、日本の社会をずっとささえてきた方式だったということも忘れてはいけません。
小泉はけしからん、小泉首相のせいで、貧富の差が激しくでた、といういっぽうで談合はけしからんというのは、矛盾しています。
談合があったからこそ、みんなそこそこの分け前にありつけて、しかも安定した生活ができたのではないでしょうか。関係者がいがみ合ってはいけないので、すこし距離が離れたひとが、天の声をだしたのも、競争とみんなの幸せを両立するための知恵の一つだったのでしょう。
そういうやりかたは税金を使ううえでいかん、ということで例のオリックスの人なんかが出てきて、なんでも談合抜きの入札だけでやることになったのですが、その結果がいまの地方の疲弊ということになっています。
地方では談合や天の声がいまでも本当は必要なのでは?
オリックス的や竹中チックの人などは、日本人の8割方が派遣労働者になってもいいと、思っているのではないかと思ったりします。

なんでも競争と入札だけだと、研究者も、大半が無所属研究者というか派遣研究者になってしまって、どこかで例の90億円のお金を受注したようなえらい方の研究グループに一年契約で働くようになってしまうのかもしれません。そういう世界にあこがれを持って、行くのは一握りの研究リーダーになろうとするものだけでしょう。つまり金満家の経営者になろうとする人だけになってしまいます。
ある程度の安定した研究者になるには、研究費が来るのがある程度予測できてないと難しい。
道路建設とか箱物行政にかかわる働き手も、安定した職を得られる人は極端に言えば数パーセントしかいない、受注企業に短期的に雇用される、つまり会社に就職するのでなく、どこか働けるところで転々とする、こういうふうになってしまうのでしょう。

それを減らすのは、談合と天の声しか無いのです。質の高い談合と質の高い天の声があってほしいのですが。
箱物行政や道路建設労働者も研究者も、税金をあてにして、生活をしている点で非常に良く似ています。
研究の世界では、談合や天の声がないと世間では信じられているのでしょうが、実際にはあります。
談合でなく、相談ですが。天の声はどこかの省庁での審査委員会あたりから出てくるのですね。
こういうものが完全に無くなって、研究者の世界が弱肉強食になったら、どうなるか。
いっときどこかの大学では、一人勝ちとかなんとか自画自賛する声が聞こえていましたが、談合がなくなると、そしてまともな天の声も無くなれば、一将功成って、万骨が枯れてしまうのです。

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