原爆投下60年におもう Sixty years after Hiroshima and Nagasaki

国会解散ですね。小泉流政治は劇場型というか、面白いですね。これで靖国参拝はどうするのでしょうか。選挙運動中にするのか、しないのか。
でもきようは原爆投下60周年に関係したことを書いてみます。

かつて大学院生と話していて、怒ったことがあります。それは、なにか日本と米国との政治的関係について、ちょっと馬鹿にしたようなコメント(つまり米軍をいつまでも傭兵にしてればいいじゃないか、の類の議論)を聞いたので、君はそれを米国人に直接言えるか、と聞きましたら、そんなこと言えるはずないじゃないですか、という返事でした。その言い方にカチンと来たというか、外国人向けの発言と日本人向けの発言は当然違うべきものだという、ニュアンスの返事だったので、わたくしは怒ったのですが、戦争や政治についても外国人だろうが日本人だろうが同様な態度で接していないといけないと、わたくしは思っています。わたくしは、このブログが英語に翻訳されて、わたくしの知己、知らない人達が読むことがありうると考えて書いています。
もちろん、知識の差が大きいので簡単には議論は出来ないものですが、日本人向け、中国人向け、米国人向けで、それぞれ政治や戦争の話題や論調ががらっと変わってしまうのでは、どうにもなりません。わたくしはよく自分の意見を米国人や中国人にストレートに言うので、かなり激しい言い合いになることが何度もありました。特にわたくしが若かった頃は。でもわたくしなりに議論するときは相手を選んでいましたが。ただ、意見が激しく対立するのが最初から分かっていて、考えを変えることも互いに無理なら、あまり議論をしたくありません。当然のことです。それよりも何か、共感できるところの話しをした方がいいでしょう。
それに、わたくしは戦争については、戦争で死んだ人達に聞かれても恥ずかしくない議論をしたいと思ってます。死者の気持ちを探りながら、自分の考えを組み立てたいと思ってます。
原爆で死んだ、虐殺されたといった方が正確でしょうが、人達のことをかんがえずに戦争の話しをしたくありません。沖縄戦のことを知るようになってからは、沖縄戦で死んだ人達のことを忘れて議論もしたくありません。いっぽうで、日本軍が殺戮を繰り返した中国人の死者のことも忘れてはもちろんいけないと思っています。
南京虐殺については客観情報が足りないと思いますが、日本のいわゆる石井731部隊がおこなった人体実験は、小説家の森村氏の作品でも詳しいのですが、悪魔的所業なことは間違いなく、これだけでも日本人は中国人に謝罪し続けねばならぬことだと思っております。

それでは、なぜ日本人は原爆投下について、米国政府からの謝罪を得られないのか。このことが日本人が戦争を考えるうえでの最大のトラウマになっているのだと思います。
広島の原爆記念館には何度か訪ねました。心の奥底が激しく揺さぶられる経験でした。戦争のために色々な兵器が作られました。そのなかで、原爆、核兵器はまったくあたらしい、恐怖となりました。人間存在の根源と尊厳ををたたきつぶす、残忍無比の兵器だと思います。この深い恐怖感を共有しないと、核兵器廃絶の運動は困難だと思います。
戦争では、常に殺戮がともないます。戦う国々の民が傷つき、死んでいきます。しかし、ジェノサイドというある民族をすべて殺戮しようとする行為が国家のレベルで行われたことは、新たな恐怖を引き起こしました。
第2次世界大戦では、ジェノサイドと原爆投下という人類がいままでに無数に行ってきた戦争行為に、あらたな次元の悪魔的な手段が実行されたのでした。
多くの人々の反応は、二度とあってはならない、というものです。しかし、忘れてならないのは米国ではいまでも広島、長崎原爆投下の正当性は広く国民レベルで周知されていることです。米国にかぎらず、隣国の中国、韓国の人達もわたくしが個人的に話した限り、多くの人々は日本を早く敗北させるために行われた「正当な爆撃」であるといっておりました。そういう周知方法が国レベルでおこなわれたのでしょう。
一方でジェノサイドについては、徹底的な否定が成功し、ドイツ政府は謝罪を繰り返しておりますが、米国政府は原爆による死は通常兵器による死と本質的には異ならない、という態度をとり続けていると思われます。一方で核拡散については極めて強硬な態度をとっていることから見て、核兵器は通常兵器よりは桁違いに大きい死者を生みだすという点でしか違いを見いだしていないようです。
しかし、わたくしは核兵器はまったく新しい次元の恐怖を引き起こす兵器であり、その引き起こす恐怖の度合いは民族皆殺しの、ジェノサイドとほとんど変わらないと、思うのです。

わたくしは、石井部隊の悪魔的所業や捕虜虐待、民間人に対する暴力など日本人の手がきれいだとはまったく思わないし、開戦のやりかたも卑怯というか臆病なやり方だったと米国などから言われても、正直しかたないと、おもいます。しかし、原爆を米国政府が落とした行為はやはり悪魔的であり、日本人に謝罪すべきだと信じております。
戦争の遂行上、日本人が原爆の標的になって当然だったと、無辜のひとびと数十万人をこのような方法で殺すことは戦争の成り行きとして、正当化される、ということくらい、日本人をかつて恐怖させたことはなかったと思います。国連には敵国条項というのがあるらしいですが、日本がその中にいまだはいっているということよりも、原爆投下は当然だったという教育が、米国や我々の一番の近隣諸国でいまも行われていることのほうが、日本人の心をいつまでも深い孤立と悲しみのトラウマの中に残しておくのだとおもいます。
日本は経済的な繁栄をしてるかもしれませんが、国家存立の「へそ」に当たる、この部分の感情が残る限り、真に自立した国家として未来を見ることはなかなかむずかしいと思われます。軍事的に米国に従属した状態がいつまでも続くかもしれません。
「この過ちは二度と繰り返しませんから」という趣旨の記念碑が広島にありますが、その主語は何かということが言われますが、もちろんこれは日本という国家が犠牲者に向かって語りかけることであるはずだし、そうでなければいけないと思います。米国という国家がこの主語に含まれるようになることは未来永劫ないのでしょうか。
原爆投下への謝罪、そのことが起こらない限り、日本人の前回の大戦でのトラウマは直らないし、百年経っても日本と米国は真の友好国にはならない、とわたくしは固く信じております。
そしてそのことは、日本が前回の大戦での行いに対する反省と謝罪
行為と深い関係があると、わたくしは思っております。戦争について語るのは、わたくしにとって、ほんとうに困難なのですが、戦争についてたがいに相手をののしるのでなく、互いに理解し合い、許し合い、なぐさめあうことが出来ないものだろうか、と今年の原爆投下60年の時におもいました。

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