きのうは比良のほうの片づけを早めにすまして坂本のほうの家に戻って、あたらしい論文書きのためにデータをずっと見ていました。書けたのは数パラグラフですが、それでもなんとなく全体が見えてきました。
土曜日の昼飯はJRの駅前にある店で食べました。マスターがすごい忙しそうに働いていましたが食べ終わって、帰るときになって、きょうは4千円の弁当を18個注文があってと言ってました。それは豪勢なとおもいました。妻は法事だと推測してましたが、わたくしはもうちょっとなにか良い理由でそれだけの弁当を注文する人が居て欲しいものだと思いました。散財できるのは法事の時だけとは残念です。そういえばあの残念と叫んでいた、コメディアン最近はまったく見かけませんが。
マスコミや文筆の人が大病になったときには、患者体験記と同時に、警世というか反省というかそういう弁を述べて欲しいものだと思います。長年タバコを吸っていて肺がんになったら、それを無言で過ごしてしまうのは、もったいないし、影響力をぜひ使って欲しいものだと思うのです。
そういう点であれだけ発言に影響力のあった筑紫哲也氏がみずからのがんについてあまり発言がなかった(ようでした)のは残念でした。
国民病になりつつある、糖尿病ですが、最近朝に町を歩いているリタイア族と見受ける男性などはついつい糖尿病といわれてしまったのかな、と考えてしまったりします。
がんと違って、死の危険を感じるどころか、体のどこもすぐ悪そうになりそうもないので、自分が病気だと認めることが困難という点で、この糖尿病くらいやっかいなものはないかもしれません。
しかしひとたび合併症がでればその後長い期間にわたって医療、介護のやっかいになるので、金銭的にも周囲的にももちろん本人も負担が大変大きいものです。
なおかつ医師が素晴らしいクスリとか手術法を持っているのでなくて、患者みずからが医師と対話しながら運動と食事に気を使って、合併症段階にならないよう日々を過ごさねばならぬ点で、がんよりも難しいかもしれないし、医療費もそれ以上にかかるかもしれません。
わたくしもこの3年間、糖尿病という診断につきあってきて、学んだことが沢山ありすぎて書けません。いまはクスリ(すたーしす)を飲んで、ここのところHbA1cが5.6-5.7、体重も腹回りも理想的ということで、優良模範患者であることは間違いありませんが、だからといってどうと言うことはありません。そういう巡り合わせなのです。ただ、言えることはわたくしのような生命科学の専門家であって始めて理解出来る糖尿病の持つ意味、普通の患者さんだったらどこまでわかるのだろうか。長期にわたる食事や運動、体重、血圧への注意などほんとに持続するのはなまじ自覚症状がない分、もしくはあってものど元過ぎた後では、ほんとに困難と思われます。文明病というか飽食の罰がこういうかたちで出てくるとは、多くの患者さんが思っていることでしょう。
わたくしの場合は、みずからの糖尿病経験を自分の研究にストレートに役立たせられたので、糖尿病になったのは人生における幸運の一つかなと密かに思っています。