勤労感謝の日、昔は新嘗(にいなめ)祭といいました。収穫に感謝し、お祝いする日でした。
いまでも陛下はこの日は長時間の神事を行っているとのことです。このあいだのたかじん委員会でも、陛下が常に日本と日本国民を思って祈られている、ということが話題になっていました。とてもいいアプローチのしかたで、感心しました。
わたくしもやはり日本という国家を考えると最初に天皇のことを考えてしまいます。本当はそれではいけないのではないかと思うのですが。
いまの天皇、皇后という希有の存在が日本といういまの難しいこの国を束ねているのは間違いありません。まったくありがたいことです。
いい天気でもありましたので、日吉大社まで歩いて行きました。紅葉も盛りでした。
人も沢山出ていました。
行列が長くあったケーブル駅のまだ上にある日吉東照宮まで行きました。徳川家康を祭る極彩色の小さな社です。特別拝観とかで中も見ました。ご開帳は年に一度6月1日とのことでした。
帰りに坂本の人達がやっている市で、由緒深い苗字の知り合いの人から柿を買いました。庭の柿とのことです。300円なのに沢山おまけしてくれて、重たいこと。でも、家で食べるとわたくしが一番好きなタイプの味でした。往復で遠回りしたので、9000歩でした。
残りの時間はずっと日曜から始まる沖縄でのワークショップの準備というか、ネタを吟味していました。今年はポスドクのSK君が非常にがんばってやってくれています。色々事務的に難しいことがあるのですが、忍耐して頑張っています。こういうものは昔からそうなので、ワークショップのようなもののプロモーターを無事に主催できれば日本の組織ならどこへ行っても大丈夫になるでしょう。
今回の仕分けだいたい言いたいことは書いてしまったのですが、でもいろいろ出ているコメントにはほとんどレスポンスしていません。時間もかかるし、すぐ対応すると誤ったものになる可能性が経験的に高いのです。
ただわたくしは一部にどうも誤解されているようなので、下にちょっとだけそのあたりを書いておきます。
(1)わたくしがここで書き散らしていることには、なんの権威もなく無価値と思ってください。政治が話題ならひとりのおっさん(じいさん)の床屋談義にすぎないのです。
(2)わたくしは国の学術教育研究立案などにまったく影響力はありません。皆無です。それどころか、いまから20年前にNatureにGrant Getting Game in Japanなるものを書いてしまったので、文科省(当時文部省)のみならず研究費を分配するえらい先生方にも大変にらまれて、ブラックリストのトップになったことは古い先生なら誰でも知っていることです。そういうこともあり生涯でただの一度も文科省など政府のそういう委員会や審議会などに行ったこともなければ呼ばれたこともありません。ですから勘違いしないでください。
(3)ただ、一度だけ2002年に文科省に付属する政策科学研究所に呼ばれて講演をしたことがあります。人生に一度の機会だったので、ものすごく張り切ってやりました。この時のPDFファイルはわたくしの研究室のホームページからダウンロードできます。ご興味あったら読んでください。その頃といまでも考えはほとんど変わっていません。
http://www.lif.kyoto-u.ac.jp/labs/kozo/kouen_July2002.pdf
この時は講演タイトルに危機的状況とあり、この講演の責任者であった樺太にある海峡の発見者のご子孫の局長さんが絶対駄目だ、といってられたようでしたが、わたくしもそれなら絶対いやだ、と言い張ってとうとうこういう名前のものになってしまったのです。若気の至り、申し訳ないといいたいのですが、もうその時は50才くらいですから。三つ子の魂、というかベトコンスピリットはその頃にもまだ強くあったようです。しかし、文科省はわたくしの研究費申請や業績評価に関してただの一度も曇りのあるようなことはありませんでした。文科省は非常にフェアーな官庁というのが正直な気持ちです。足を向けて寝られません。
これですこし、誤解を持たれた方が修正して頂けるといいのですが。
追記
投稿してから、日高敏隆先生が亡くなられたとの報に接しました。いつまでも温顔の先生が自分が生きている限りは生きておられるような錯覚がありました。
影響を受けました。生き方のスタイルがなんともいえず魅力的でした。もうああいう方は出てこないような気がします。誰かに聞きましたが、フランスでのパーティでフランスの女性たくさん彼を囲んで談笑する、日本男子でまったく例外的にいわゆる外国人女性にまでも「もてる男性」でした。
長いことお会いしていません。
でも娘が先生の著者をだすための編集の役割をして、自己紹介したら、なんだ柳田の娘さんかと、お父さんは呼び捨てだったよ、といわれました。当然呼び捨てです。11才も年上ではるか雲の上にいるような方なのになんとも親しみやすい人でした。