きょう訪問したS君はわたくしのブログのコメントを細かく読んでいて、いろいろ感想をいってました。
わたくしはあまり感想ありません。ただ、若い人が多いみたいなので、滅多にこんなことかきませんがちょっと書いておきます。
やはり若いときに難しいのは、人間関係ともうひとつ未来予測の困難さです。若いというのはわたくし、この年なので40代はもちろん、50代でもわかいなんて思ったりすることがあるくらいです。
それはさておき、前回に触れたわたくしが書いてしまったGrant Getting Game in Japanですが、自分なりに過激に批判的にならないように、自分なり非常に気をつけて書いたつもりだったのですが、誤算は編集部が知らぬうちにつけた見出しの文章でした。ゲラにもなく印刷されたものにあった文章にこうありました。
「日本の生物学者は日本のあいまいでunfairな研究費分配のやりかたで挫折している。日本が一級の研究グループと国際的に競合するために改革が必要だ。」
後半も前半もだいたいはいいのですが、このunfairという一語が入っていたのでした。たとえ心で思っていても書いてはまずいに決まっています。これが文科省研究費関係者を激怒させたと、消息通のかたに後で言われました。本当かどうかは知りません。しかし、外国の知り合いの何人かにも、あんたあんなこと書いて日本で生きていけるのか、言われたものです。しかし、本当のところ、このことのおかげで研究に専念できたありがたい、ともいえます。ともあれ、自分の書いた文章でなくても、ひとたび公になれば、どういうことでも言い訳などほとんど意味ありません。責任を取らねばならないのですね。論文公表でも同じことです。一流誌はよく英語を大々的に直します。ぼんやりしていると、まったく意味の違う文章になっていることが良くあります。それだって、出てしまえば、自分の文章になってしまうのです。こういうことは珍しいことではありません。
もうひとつ、思い出話を書いておきます。
文科省の科学技術政策研究所でやった講演録「わが国大学における生命科学の研究と教育推進の危機的状況」のでは、生命科学者が三度の危機をどう対応したかに触れました。組み換えDNAの始めの頃、ヒトゲノム配列決定開始の頃、そしてヒト胚細胞研究禁止の頃、です。二番目のヒトゲノムの推進の初期の頃の思い出話も書いたのですが、極力個人攻撃にうけとられないよう、しかし言うべきことは言っておきたい、と思ったものです。
わたくしあの頃は結構ゲノム屋だったのです。国際会議も出たし、それなりに色々知識もあり実績もあったのですが、ヒトゲノム自体をやる気はまったくありませんでした。しかし、ゲノムのことは割合知っていたので、色々発言をしていたことは事実です。
しかしある時、何人かからこの関係のえらい人が柳田がヒトゲノム計画に「野心がある」と言いふらしてますよ、と注意されました。これには呆れました。と同時に、馬鹿らしくなり、発言を止めました。よく知っているどちらかと言えば親しいはずのえらいさんがそんなことを言うのが、日本の学問の特に霞ヶ関チックな学者先生たちのポリティックかなとおもったものです。
それで、わたくしの研究室でも徐々にゲノムの研究は減らしていったものです。要するにやってられない、という感覚でした。この判断は個人的には間違ってなかったと思っています。
若い人には学問をとるのかそれ以外を取るのか、という難しい問題が年をとると折々に出てくるので、それまでに体を鍛えておけではありませんが、間違った判断をしないように準備しておくべきです。でもなにが正しく、なにが間違っているか、コントロールのない判断でもありますので、結局はわからない、ただ不幸せなことにはなりたくない、こういうことだと思います。