徳川生物学研究所、田宮博先生、柳田友道先生

暖かい日です。妻はいま姫路にいる育休中の長男が育休業務からのデイタイムオフを京都で取りたいとかで、お嫁さんの実家まで来ているので、朝いそいそとおばあちゃん二人での育児に京都の西の方に出かけていきました。
わたくしは明後日沖縄のワークショップに出かけますので、講演準備がありましたが、さっきだいたいすんだところです。名前だけのオーガナイザーみたいなものでまかせきりなのですが、始まればそれなりに役割があります。

マスコミ関係者が今日が最後だかの、この政府の予算仕分けに大甘なのですが、面白いのはみなベテランの人達が上気したような顔つきでこの作業を興奮気味に語ってる姿です。よほど心が吸い取られているのです。でもわたくしは科学記者を20年もやったような人が、予算を年度で全部使い切らないといけないのが諸悪の根源だとわたくしが言ったときにキョトンとして、それなんですかと言われたのを忘れません。ついこないだのことです。マスコミの人の多くははほんとに現場のこと知らないのです。だからかれらのもっともらしい説明はあやしいのです。今日出ていた、朝日の仕分けについての記事、評価していましたが、無署名記事でした。これ、瀬川さんとかよく分かっている記者さんたちも納得の記事なんでしょうかね。

きのう家に帰って、わたくしがかつて行ったことのある民間の生物学の研究所で徳川生物学研究所というのがあったけれど、あれは何だったろうと疑問におもいネットで調べてみました。
たぶん修士1年か2年の頃の大昔に、東大の植物におられた田宮博先生にインタビューするというので、どこにいるか調べたら、この研究所通称とっけんにおられるとのことでした。当時はえらいと言われる人達にお会いして話を聞くのが自分の使命のように思っていました。
どのようにアポイントを取ったのか憶えてないのですが、誰かと二人で行ったのでした。とても怖い先生だからくれぐれも言動に気をつけるようにと、たぶん高宮研の加藤先生だったかに言われたものです。
おそるおそる言ったら、気さくに話をしてもらえたのが記憶にあります。当時は植物に無知(今もですが)だったので、なにを聞いたのか憶えていませんが、とっけんは目白のあたりにあって、古いけれど大きくて立派な住宅にあったと憶えています。実験室がどうだったのかわかりませんが、当時の植物、光合成実験などいろいろできたのでしょう。ネットで見ると、そうそうたる人々がここで研究をしたいたのです。軍隊帰りの若者がかなりいたようです。
尾張の徳川のお殿様の子孫である徳川義親元侯爵が作ったものだと言うことです。知りませんでした。でも誰かお金持ちの家だろうとは感じました。財政的に続かなくて1970年に閉鎖されたとあります。ですからわたくしが訪問したのは閉鎖される5年前くらいだったのでしょうか。

田宮博先生はクロレラの研究でも有名でしたが、ネットで検索しているうちに、徳川生物学研究所を詳しく書いてある文章にであって、どなたが書いているのか、そのエッセーのホームページにたどり着いたらなんと柳田友道先生のでした。
なんと懐かしいことでしょう。
わたくし先生の当時応微研といった東大の農学部の隣にある研究所の研究室で大学院生をする予定だったのです。でも、ひょんなことで野田春彦先生のところに変わったのでした。でも柳田先生にはその後も何度となくお会いしたものです。
おい柳田、おまえの同期のあのN君をなんとか説得してくれよ、などと頼まれたものです。ほんとに昔の話です。柳田先生、yanagitaとつづります。わたくしはyanagidaですが、親の生家のほうではyanagitaとも言ってます。もしも同じ研究室ではたらくとごっちゃになってややこしい、なんて話があったりして、わたくしが勝手にyanagidaとしたもので、わたくしの栃木の一族はたぶんyanagitaとかyanagidaとか適当に言ってるのですが、たぶんyanagitaが優勢でしょう。
話がそれてしまいましたが、昨晩遅くまで柳田先生の色々書かれたものをネットで読んですっかりしんみりした気持になってしまいました。それで民間の生物学研究所探索のほうはさっぱり先に進みませんでした。でも、学部生か修士1年の頃に駒込にあった理研に行ったのを思いだしました。根粒菌だかにヘモグロビンがあるのだよ、とか聞かされた記憶があります。
柳田先生、お元気のようです。いろいろご病気もされているようですが。いつまでもお元気でいて欲しいものです。95才におなりになったようです。

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