とりあげてほしいという要望があったのはきょうのタイトルにあるようなことでした。
海外にある程度ながくいる日本人は共通に感じることなのかもしれません。
これは案外複雑な様相があって単純に論じきることはできません。
外国のことばの習得のもんだいと、外国にて生活することのふたつをかんがえてみましょう。
外国語の習得を必要と感じるかどうかは必ずしも外国に旅行したり、生活するからという理由だけではありません。
鎖国時代の日本人、外国に行く機会がゼロでも一生懸命外国の言葉や文物を理解しようとしました。戦前の日本人、すこし教養があれば外国留学の夢はかなわなくとも外国の書物を読むために外国語の習得を一生懸命やりました。この熱意はすごかったはずです。それが明治をつくり、ずっと続いた日本の外国文化の取り込みの基礎になっているのです。
そういう観点でみると、外国語一つではとても駄目、最低外国語二つくらいはなんとか読めないと、外国の文物は自分のものにならない、こういう感想が素直なところでしょうか。
つまり昔の日本人は海外の文物に興味をもつと外国語をすくなくとも二つはやるべし、となったのは当然でしょうか。漢文も入れれば三つくらいは当然かもしれません。
しかしわたくしたちの下の世代つまり、団塊の世代のあたりからい、個人の内面での地道な知的な蓄積を軽侮する傾向の強まりもあり、大学で第二外国語を軽んじる傾向が全国に風靡したのでした。わたくしは、いまでも日本人なら外国語は二つ学ぶのが基本だと思っています。
外国で生活することに関心を持つというのはかならずしも外国語習得とは直接関係がないような気がします。パリの生活に憧れる若者たち、さいしょはフランス語などまったくしゃべれないで生活を始めてしまうものです。言葉に対する関心は、フランス語をしゃべればより刺激的な生活が出来るからでした。ピロー外国語という子供には教えるわけにはいかない外国語の習得法があるようですが、外国生活に関する興味の一つは異性に対するものであることは言うまでもありません。外国に生活するうえで言葉がかならずしも障害にならないことはよく知られていることです。しかし巧みにして魅力的な交際術は持ってなければなりません。
前置きが長くなりましたが、いまの日本、総じてどちらも、つまり複数の外国語平気で学ぼうとする強い知性と貪欲な態度と、言葉は知らなくても外国で交際術は持ち続けられる、このどちらも弱い若者が日本にはたくさんいるように思うのですね。というかそのようなものに関心を持つ若者がそうじて減ってきているのでしょうか。
もちろんある程度はいるのでしょうが、このグローバル時代、海外にいると他の国の若者の増加と比較すると、日本人は静かにやってきて静かに去るくらいなので、存在感が希薄に感じるのでしょうか。
何のためにそんな強い貪欲な知識欲があって、何でそんなにしつこく他人と付き合おうとするのか、それがわからない、そういう風にかんじる日本の若者が増えているのでしょうね。
やはり日本では衣食住は大丈夫という感覚をもっている若者が大半だからでしょうか。自分は稼げなくとも,親の蓄えたものをつかわせてもらえば自分の世代くらいは食べて、着て、寝られるというくらいに思っているのでしょうか。
しかし、日本の経済力の低落傾向が続けば,30年くらい後には新たな強くて貪欲な若者が多数でるはずでしょう。しょせん人間のエネルギーは、食わねばならぬという、そのあたりの強い気持ちとそのために自己顕示がひつようという、そういう感覚から生まれてくるのでしょうか。
やはりいまの日本の若者を作ってきた、いまの大人つまりわたくしたちが悪いのでしょうか。