尖閣諸島の領有権の問題がまたぞろ出てきています。例の事件が起きて一年だからでしょう。島に日本の海上保安庁の船なり自衛隊が常駐しているとは聞きません。日本が実効支配しているとはいえ、韓国が竹島でやっている実効支配とはまったく異なります。
この問題に日本の国益を代表して発言するのは政治家と官僚なので、かれらの発する言葉に国民が関心を払うのは当然です。
辞める直前の枝野官房長官は自衛隊を使ってでも実効支配を維持するとたしか発言したようですが、その時もその後も話題になりません。不思議です。野田政権になって、官房長官は日本の固有の領土であることはいうまでもない、といったようです。それもいいでしょう。わたくしのような平素この問題を考えていない人間が感じるこの問題は、自衛隊常駐のようなかたちで実効支配してない以上、不測の事態に備えて、政治家は発言してほしいと言うことです。つまり実効支配のためにはいざとなれば軍事力をつかうという意識があるのなら、その点は徹底的に段取りをしておいてほしい、いざやるとなると、ドンパチも恐れず不退転の覚悟でやってほしい、ということです。そうでなければ言葉だけ踊るような言動は慎むべきです。さもないと去年の出来事の二の舞どころか、もっともっと日本国民が憤慨するようなことが起きるかもしれないのです。なんか心配です。とんでもない出来事は一見そういうことをやりそうもない人たちがやるという経験は日本が何度も経験してきました。
たかじん委員会の土曜日版、増刊号とでもいうのでしょうか、そこでの武田邦彦氏の発言を岩手の一関市の市長さんが憤慨して、これをマスコミが取り上げています。
共同通信は以下のように報道しています。
「東北の野菜、健康害する」 教授発言に一関市長抗議
読売テレビ(大阪市)が4日に放送した番組で中部大の武田邦彦教授が岩手県一関市の放射線量の数値を示し、東北地方の野菜や牛肉について「健康を害するから捨ててもらいたい」と発言し、勝部修一関市長が教授に抗議のメールを送ったことが7日、市への取材で分かった。
番組は「たかじんのそこまで言って委員会」。「東北の野菜や牛肉を食べたらどうなるのか」との子どもの質問に答える形で、武田教授は健康を害するとしたほか「いま(東北地方で)農作物を生産するのが間違い」などと発言。放射線量の数値が高い場所として一関市を挙げ「ここには海を通って放射性物質が落ちた」と話した。
わたくしあの番組のその部分は確かに見ていました。出演者の一人が激しく反発して、そう言ういい方はないだろう直ちに撤回すべきだ、と何度かいいましたが、武田氏は認めませんでした。テレビという場とどういう順序でいったかによってもずいぶん印象は異なります。武田氏のような順序でいえば反発するひとが出るのは当然かなとも思う一方、氏の断定的な口調はかなり気になりますが、個々の主張が誤っているとは言えない面もあります。それどころか、政府や東電や官公庁が伏せてきた放射能の放出汚染のできごとのなかに、もしかしたら千や場合によっては万のオーダーの人々、相当数の放射能被害者が出る可能性があるのは確かです。しかし、それはすぐには分かりません、年のオーダー場合によっては数十年のオーダーであるのです。ですから、直ちに健康被害がないから、だから大丈夫なのだという、行政や政治の判断があればそれは間違っているとしか言いようがありまsねん。
しかしわたくしは、あくまでも可能性としか言いようがありません。あとは可能性があることは事実ですから、武田氏のようなかたが、可能性について強烈に断定的にいってもそれは誤りではないでしょう。しかし、テレビのように一過性の発言ですから、強烈に自信ありげに言われると、可能性ではなくて、必ずそうなるかのような印象を与えるかもしれません。このあたりのことです。
武田氏の意見は日本では少数派の意見として受けとめられているのでしょうか。氏は子供を被害者にしてはいけない、といっています。これに反対の人々は居ないでしょう。でもわたくしのような高齢者だって、被害者になるのはいやでしょう。
ともあれ、この原発事故の今後の推移、原発放射能による被害、分からないことが多すぎるのです。
分からない状態に耐えて、なんとかしてなるべく早く分かるような体制をつくっていく必要があるのでしょう。
いま除染といって、水素爆発時にまかれたものすごい量の放射能を除く作業が真面目に論議されるようになってきましたが、これもそれに要する膨大なお金と何十万の子供たちを初めとする住民の避難なしにやるのでいいのでしょうか。東北の人々を放射能被害の被験者のような立場においてはいけません。いろいろな意見をだしあって、住民投票のようなかたちを通じて人々の命を守っていくやりかたを決める必要があるかもしれません。武田氏の議論は過激なようですが、そのエッセンスの部分を冷静に受けとめる必要があるでしょう。
確固たる証拠もなしに、安全安全と呼号するのも無責任だし、何かの拍子にそれが崩れたら、そのあと誰も信用しなくなるのです。一方で危険を断定するのもよくないので、国民一人ひとりが判断出来る材料を増やしていかざるをえません。