和田先生の本を読んで感じたことは、いまの日本のエリート教育はどんなふうになっているのだろうかということでした。ここで、エリート教育というからには、だれがエリートであるかを定義しないといけないのですね。わたくしは、ある民族なり国家なり、場合によっては村とか町とかさらに親族のようなレベルで、「選ばれた人間、将来そのレベルの単位の社会に有為な人間」とでも言いたいのですが。
わたくし自身は小学校から普通の公立ばかりを出ているのですが、高校は当時の進学校を出てます。エリート教育は特にされた記憶はありませんが、クラスの半分以上がT大を受けるのですから、自ずと生徒同士のあいだでそれなりにエリート的な会話があったことは事実です。つまり生徒間の話し、これから自分たちは社会にどう関わるか、そんな話しをよくしたものでした。そういう話しをしたことは、生徒仲間のあいだで明らかにエリート教育を自然に受けたのでしょう。独特の臭みというかいやらしさはそういう環境でかもし出されたかもしれません。でも一方で、社会が常にどこかにそういう環境を持ってないとエリートは生まれて来ないような気がします。
和田先生のご自身の体験を語る部分でも、まさに戦後の戦地から戻ったばかりの当時の生徒達の作るエリート的環境のすごさを感じました。もちろん一方で、そういうエリートのにおいに反撥を感じる人もたくさんいるでしょう。エリート教育は先生が出来るとおもってもそう簡単に出来るものではありません。選良とおもう若者達がいて、そういう環境があって始めて、可能になるのだと思います。教育などむしろ何もなくても、前途有為と自負する若者が5人もいれば彼等のあいだでエリート教育は自然に行われると思うのです。
ここから先が、きょうのわたくしの辛口の意見なのですが、現在の有名進学校ではどうもエリート教育はほとんどないのだな、とおもってます。論より証拠、いちばんできのいい子が、ほとんど医学部に顔が向いてるのは、つまり金銭的裕福(実際には錯覚なのだと後で分かるのでしょうが)という、キーワードで人生を生きる人達がそういうところに集まっているのだな、と思うのです。そういうのが前途有為の若者だと自負されるのなら、そんなところでの切磋琢磨なぞわたくしはどういう意味があるのだろうかとおもってしまいます。