自主構造研の半年

退職後半年経って、新しい研究生活にもすこしずつ慣れてきました。しかし,わたくしがそうであっても、研究室のメンバーは、ボスが突然「自主」構造研と言いだしたので、戸惑ったでしょう。半信半疑と思えたでしょうが,半年経てばある程度かなりの違いがわかってきたのではないでしょうか。沖縄では研究者のほうは、みなポスドクですから、自主性はかなり高くやってもらってるつもりです。
まずひとつの変化は、論文の決着に時間が非常にかかるようになりました。年間に公表する論文の数は今年、はっきり谷間になるでしょう。なぜなら,論文作成段階での本人の参画を飛躍的に増したからです。自主的な判断,自身での仕上げにゆだね出しています。これまではわたくしの判断で済ませていたので1−2週間ですんだのに、いまは一体いつ終わるのかわからない感じになってる、論文が2、3あります。かなりいいレビューが戻ってきて、これまではすぐ細かく指示して本人がよくわからないでも馬車馬のように働いてもらえれば、ひと月くらいでゴールに到着していたのですが,いまは本人によくかみしめてもらってますから,いったいいつ終わるのだろうか,わからなくなっているものがあります。もっとせっかちになって欲しいと思うこともあります。わたくしが、3か月か半年かかかるんじないの、と言うと、その半分ですませようと意気込む対抗的な若者もいて欲しいと願う気持ちもあります。しかし、たぶんこれで良いのでしょう。本人の資質と意欲にゆだねるのが良いのだと、決めた以上は。
一方で、飛躍的に研究能力が伸び出してるメンバーも出だしてます。自主性を高めた事が、完全に吉と出ている、ケースです。本人たちはもしかしたら気づいてないかもしれませんが、瞠目すべき進歩を遂げているメンバーが複数いるので、わたくしは内心非常に喜んでます。彼等の持つ才能が花開きだしているのです。
自主性を高めることによって、ひとつは論文の読み方がまったく違ってきているのです。つまり自分が読んでいる論文をどう把握し、引用するのならどう記述するかが本人の最終責任ということになれば、責任感がまったく違ってきてます。カバーレターでレビューアーとたたかう部分も本人の知識と考えの範囲でかなりやってもらうことになれば、眼の色が変わってくるはずです。英語の文章も飛躍的に向上して来ているのも、やはり責任感からくる緊張感かもしれません。もちろんそもそも研究をどのように進めるのかも、ともあれ自分で自主的に考え出してくれれば、議論も深くしかも内容の濃いものになります。

そういうわけで、自主構造研の半年、問題もでていますが、かつて研究室の歴史の中で存在しなかった、あたらしい、優れた流れも生まれてきました。わたくしが年をとって、「まあこれでもいいか」、と思う範囲が拡がって来たこと、それに攻撃的でなく守備的になってきたことが、メンバーの自主性を高める基礎になっていることはまちがいありません。しかし、最近では、これでも良いかではなく、へえー、そちらのほうが良いではないか、という結果も出だしてるのです。こういう事がわたくしにはいちばん嬉しいことです。
このようなやり方の結果は2,3年レベルでもある程度分かりますが、たぶん本当の結果は10年20年経たねば分からないでしょう。

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