敗戦国民としての忍耐

きょうはお昼から京都駅のそばで会合があります。遺伝研のK教授が主宰する研究領域のアドバイザーというのか研究報告を聞いて、なにか意見をいう役割です。わたくしにとってはいまの日本の学界の様子がわかる数少ない機会ですから、出かけていってみなさんのお話を聞くのを楽しみにしてます。それでブログは今のうちにすませておきます。

名古屋の河村市長、よせばいいのに、生兵法はけがのもとの典型例です。かれのその時の全発言というのを見ましたが、本人は非常にフレンドリーで親中国感に溢れていると思うのでしょうが、戦争はあったが虐殺はなかったとその中で、中国代表団にいえば、かならずあとで内野席か外野席と喧嘩になるということご存じなかったのか。公職にある人は、よほどこの問題に詳しいか、なにか事を起こそうと思わない限り、発言すれば無駄な時間を過ごすことになるとおもいます。
戦争関係で、有益な質問は中国代表に広島、長崎の原爆投下は中国でどのように教育しているか詳しく聞くと、かなり有益な話しあいになると思います。でも感情的な話しあいにならないことです。

日本は戦争中に人種差別的に中国人や他の外国人を沢山虐殺したというのは世界の通り相場の理解です。
日本とドイツは違う、などと日本人が言ってもなかなか聞く耳を持たない人たちが米国や欧州、中国、韓国を中心にいるわけですから、その件で議論するときはしっかり自分の知識と意見を持ってからにした方がいいのでしょう。でもまあ向こうから議論をふっかけてくるのは減っていますから、こちらからしかける必要もないでしょうに。
敗戦国は次の戦争で勝たないかぎり、100年以上、下手すると2,300年くらいは敗戦国だと高校生の頃に習いました。嘘だと思いましたが、最近はそうかもしれないと思うこともあります。要するに、戦争に負けたのだから忍耐忍耐で何世代も耐えなさい、ということですね。
いまの日本は戦後しばらくより、もっと敗戦国的な国情となり、敗戦国にぴったりしたふさわしい指導者が増えているような感覚を多くの日本国民は持ちだしているのではないでしょうか。
たしかにもうすこし気持ちだけでも独立不羈であってほしいですね。

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