料理の段取りを楽しむ,五木寛之氏の放射能につよくなれ日本人という意見、

週末の天気快晴なものの風は寒いと言ってもいいくらいです。
ひとりなので自分の食べるものを自分でつくる楽しみにはまっています。他人にごちそうするだけの力はないのですが,自分で作って自分で食べる楽しむ力はあるみたいで、ゆっくり時間をかけて楽しんでいます。やることはデスクワークと超ミニの庭にある植物の世話をするぐらいですからその時間の合間を使って食材を準備し料理の段取りをとる、そんな調子です。夜もちゃんと最後はなにかスイーツをひとつ選んで新聞をよみながら音楽を聞くという時間を楽しんでいます。
きょうは午後4時近くになって国道の奥にある恩納で唯一気に入ったコーヒーを飲める空間JBにでかけて閉店までの時間を過ごしました。5時に閉まるので短いのですが、それでも十分に店主の作った空間を違和感ゼロで楽しめます。パウンドケーキを一つ買って,一切れ切ってもらってエスプレッソを飲み、幸田露伴の「骨董」なるエッセーを読む時間を持ちました。
この素晴らしい(恩納の中で)空間はたぶんあとあまりもたないのではないかと心配しています。恩納においてはいろいろな意味での「破壊」が進行していますので。

五木寛之氏がさすがの卓見を披露しているのをたまたまテレビで見ました。どこのチャンネルだったのでしょう。氏の意見は,いまの日本は大戦後の時は国は破れても山河あったのだが、今度のいくさは、山河が敗れてしまっても、国は残っているという状態だというのです。
そして日本人は放射能に強くならないとこれからいきていけないのではないかというのです。勇気ある発言です。原発を再開せよというような意見ではなく,生き抜くためには放射能に負けない日本人になろうという意見と受け止めました。戦後の歴史を生き抜いてきた人間として、体験に裏打ちされた意見です。死生観もふまえての意見とさらに日本の未来を見据えた意見と受け止めました。
そうか、大震災後一年経って、五木寛之氏はこのようなことをいうようになったのか,とある感動をもって氏の言葉を受け止めました。自分はまだ曖昧な世界の意見の中にいたな,と思いました。

きょうはここでやめようと思ったのですが,もうちょっと書きたくなりました。たぶん中途半端な終わり方になるのではないかと思うのですが,もう少し書きます。
日本は格差社会になったというときはおおむね経済的格差を意味するようですが,実は日本の社会で進行しているもうひとつは健康格差だとおもいます。周囲が騒がないので気がつかないのですが,健康格差はいまの日本非常に大きくなっています。高齢でも健康であることはどれだけの有利さが生きる上であるか、は病気になってみれば分かるはずです。若くても何らかの理由で健康を長期に害すれば、健康のありがたさは経済的なものでは絶対的にあがなえないものです。健康であり続けることは自らの努力でもかち得ますが,いっぽうで経済力や知的な力も大きく関係します。生活や職業環境も大きく影響します。さらに生まれつきの生得的なものの影響もあるでしょう。だから格差という言葉をつかっても差し支えないと思います。
最近触れた、ぎんさんの4人の娘さんが平均90才を超えていることからも健康長寿は継承されうるようです。一方で日光や放射能に生得的に弱い人たちもいます。そういうひと達にとって、福島にすむことはいまや恐怖でしかないでしょう。
五木寛之氏のことばは、日本から逃げられないひと達つまりほとんどの日本人に向かって、放射能に強くなろうと言っているのだと思います。たぶん立ち向かう以外に道がない以上、強くならざるを得ないといっているのです。勇気をだして、原発絶対反対を主張するのも強くなることだし、自分が放射能弱者だとおもったら、どんなに愛する故郷福島でも生き抜くためにはそこを去らないわけにはいかないということなのだと思います。それを負けたとおもわずに強く生き抜くためのすべであると言っているのだとおもいます。日本人もいろんな理由ですむ場所をかえざるを得なかった歴史的な理由があったはずです。今回の大きな戦の敗戦の結果は、直視せざるを得ないのだとおもいます。
山河破れてしまったのだから、という諦観のあとに、それでも強い意志で生き抜いていこうというメッセージと受け止めました。大部分の日本人に対して,放射能を単に怖がるのでなく、これから何世代も放射能と共存して行きていくのだから,共存の思想を持たざるをえないではないかと言ってるのだと思います。誤解されがちな言葉ですから,勇気ある発言と思いました。

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