きのうの続きのようなはなしですが、経済格差のうえのほうにただいるだけ、とか健康おたくでたんに健康をみせびらかず、これあきらかに感じ悪い人物像ですね。経済的にめぐまれていることをみせびらかすような人物は目の前から消えて欲しい、健康むきむきの人物も嫌悪感しかもてない、実際にはこういう受けとめされるものかもしれません。
むかし、米国のサンディエゴで健康みせびらかし都市という印象を持ちました。いまはどうなのでしょうか。不健康見せびらかしよりははるかにいいでしょうが、おじさんおばさんが公園で太極拳をゆったりしている光景のほうが、音楽をならしてジャズダンスというのですか、威勢のいい跳んだり跳ねたりの踊りをおどるよりは見映えがいいでしょう。このあたりは「さりげない」のが上品なのでしょうか。やはり、これ見よがしはどうもよろしくない。
そういう意味でいうと、失われた20年で日本人のこころはかなり鬱屈しているかもしれませんが、でも海外でのこれ見よがし族がほぼ一掃されて、しずかにかろやかに動くひとびととなりました。なんといっても世界一の長寿国で、経済の調子がわるいわるいといってもお金持ちの国であることはまだまだ間違いありません。
問題はこの大震災以降の日本人の心です。一億総中流がなくなって我慢ができるかどうかの格差社会に向かっているときに、この震災で、日本は不信と分断社会になってきたように思えます。
不信とは、もちろん社会の枢要な立場にある人間たちが、責任をまったくとらない、うそを平気でつくと、日本人が自分の社会に対してそのように思うようになってしまったのです。極端なはなし、日本の上層部では、天皇と皇后以外は信用できないとまで言える極端な社会風景になってしまった、その不信の荒涼さです。
分断とは、福島や東北地方の人々をみる日本人の目つきです。沢山の献身的な助けようと心の底から思う熱い心の人達と、それに無関心、それどころか、わずかな放射能があればぜったいがれきをうけつけない、というこの放射能を原因とする、心の分断です。この荒涼さはひとたび始まればかなり長期にわたって続くのではないかと怖れています。不信と分断のうち、やはり分断が非常に気になります。
不信も分断もそこから何も生まれてこない以上、それらを乗り越えるための心の強さを持つ必要があるのでしょう。その心の強さは、やはり広い気持にささえられるべきものです。