無くて七癖、これでいいのだ

無くて七癖、とかいうことばがありますね。
どんなひとでも多少の癖はあるものだという、程度のいみですが、個性がほとんどないようにみえてもなにかある。とか、完全無欠のようでも、いくつかきずはあるとも、またみんな似ているようだが、でも一人ずつよく見れば、ちがう。こんな風につかわれます。
わたくしは、七癖を大事にしたい、七癖を上手に伸ばす使うのが人生を生きるこつ、ともおもっています。
日本の社会では、小さい頃から他人と違うのが大事にはあまりされません、むしろ親からも先生からも周囲からも、それじゃ駄目といわれがちです。しかし、他と違わなければ無個性ともいわれるのですから、難しい。小さい頃から、いつも鼻くそばかりほじくっているとか、いつも指を口のなかにつっこんでいるとか、そういうのは怒られても賞められることはありませんが、でも放心状態で考え事をしているのですから、なにかのいい個性に結びつく可能性がおおいにあります。鼻くそほじるな、指つっこむな、といえばぼやーんと考え事をする習慣も消えてしまうかもしれません。それじゃ残念です。ヘンな癖はかならず背景にそのひとらしい何かの個性があるのではないですか。将来、鼻くそほじるヒマがないくらいなにかに没頭できるようになればいいのですから。
そんなことで、へんてこな癖も実はひとがなにかかわったことすごいことをなし遂げる原始の前段階かもしれない、こういうふうに思いたいものです。
人間が自信をもつのは、実は自分がそれとなく気に病んでいたことが実は気にすべきでもないし、むしろどんどんその地を丸出しにしてやった方がいいのだ、という社会を発見したときなのです。
日本はいい社会もたくさんありますが、無くて七癖で叱られがちな人にはすこしつらい社会のように思います。そういう人たちが、のびのび出来る本気の社会、そういうものも所々にあるといいのでしょう。わたくしは、東大で学問を始めたときにどうも自信をもてませんでしたが、海外にいって初めての研究室で、これでいいのだと、後年赤塚不二夫氏が喝破したのと同じ気分になり、その後ずっとその気分でやっています。
それでわたくしの無くて七癖はなにか、周囲の人はだれもしっているでしょうが、自分からはいいたくありません。

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