この夏、テレビの前に座って一回長編映画を見ました。伊丹監督の「たんぽぽ」です。前にもみたことがあるのでこれで2回目かもしかしたら3回目かもしれません。初めてみたように面白かった。
むかし親しくつきあった米国人のKさんはむちゃくちゃ面白いといっていました。
他にもアメリカ人で同じようなことを言った人たちが言いました。この映画米国で受けたようです。100回見た人もいるようです。日本ではあまり。
伊丹監督自殺してしまいました。理由は知りません。
あのたんぽぽとかマルサの女とかお葬式とかでなにかの国際賞をもらっていたら、やはり死を選らんだでしょうか。わかりません。
惜しい人を日本の社会は失ったな、と映画を見ながら何度も思いました。いまのこの政治の混迷の時期、ぜひとも作品を作って欲しかった。
伊丹監督の作品、日本的にエキゾチックでなかったのかな。日本文化の良き理解者のフランス人に受けなかった理由はなんだったのだろうと、映画を見ながら何度も思いました。伊丹監督は欧州での賞賛を渇望していたのではないだろうか。
仮の説明を思いつきました。
不必要なエロとグロが混入しているのが、どうも。味付けの意図としてはわかるが、後味は良くない。お葬式の映画でもおなじような感覚を持ちました。でもこれが伊丹監督の持ち味というか、サービス精神のプロダクトなのか。
伊丹監督の思想とは結局なんなのだろう。何を描きたいのだろう。不正を憎むというのでもなく、また人間の感情を掘り下げるのでもない。なにかファナティックな情熱を持った人間を実にドラマチックに生き生きと描くことでは素晴らしい。鋭利な刃物で切ったような場面が何度も何度も出てくるので,息もつけないような面白さはあるが、昇華してくるものに何か欠けている。
そうなのです、昇華してくるもの、精神の高さ、純粋さが分からないのです。
わたくしは、宮本信子のタンポポさんの息子がいじめられていたのが、映画の終わりのころにはいじめられなくなっていた、あれがさりげなくて、それになんとなく粗い印象があったのです。
あのあたりが昇華できる部分だったかもしれない。
そもそもタンポポさんと主人公の男性山崎努が恋愛的にならないのがおかしい。あれだけ、エロとグロがあるのに、この主人公の男女の精神の交流が,愛欲ゼロなのが変。
ここのところがフランス人に受けなかった理由とこのさい決めました。
もうちょっとなのになあ、と深く嘆息気味におもいました。伊丹監督の親戚である大江健三郎氏がノーベル賞をとったのですから、国際的な高い評価を得るすべについてなにも知らないはずはありません。
惜しい人を日本の社会は失ったなあ、と映画をみながら何度もおもいました。
死なずに生きていて欲しかった。
いまなら、橋下市長さんあたりをモデルにすごい映画を作れたとおもいますが。
でも考えたら、伊丹監督はヤクザの映画を作って襲撃されて大けがをしたのでした。
伊丹監督は自殺でない、と信じ込んでいる人がまだいるとか。