汚いデータはピンからキリまでありますが、どれもそれなりに意味があるものです。汚いデータを見せてくれない院生は好きになれません。
年の功で、研究室内で出てくるデータは誰が出したか聞かないでもだいたい当てることが出来ます。不思議ですが、汚いデータの汚さが違うのです。個性の違いですか。
エピソードを一つ。Fred Sangerがインシュリンのアミノ酸配列をトリプシン分解などを駆使して、20代半ばで決めたのは有名ですが、彼の出した実際のデータを見た人を知ってます。その人の話では、あのぼやっとしたペプチドスポットから、どうしてああいう配列結果がでたのか、データの説明を聞いてもぜんぜんフォローできなかったそうです。
それでは、「心眼で結果がわかったのでしょうか」と聞いたら、「そうとしか思えない」との返事でした。真相は知りません。でも、人が見たら、汚いデータとしか思えなくても、実際には「ピン」のデータだったのですね。彼のデータがいかに良かったかは彼の後で大規模で当時のハイテクで決めたRNaseとかLysozymeはかなり配列決定に誤りがあったそうですから。でも実物のデータは一見そういうものであったのかもしれません。宇宙物理学のデータなんかは一見ゴミに見えますね。
院生が汚いデータと決めて、すぐどこかにしまってしまうようなものの中に大切なものがあったことは今まで枚挙にいとまありません。ですから、最低限数日は人の見えるところにデータを置いて欲しいものです。だいたいデータを自分で何でも十分に解釈できるなどとおもう修士1年や2年の学生がいたら傲慢だと言いたくなります。
データの汚さを突き抜けて、真理がちらっと垣間見せてくれてるような状況に出会ったら最高です。研究の醍醐味です。汚いシミやスポットの陰に、真理が隠れてることは本当によくあるのです。
わたくしが経験したエピソードを一つ。
むかし、ファージT4を毎日電子顕微鏡で観察していた、スイスのジュネーブにいた頃のことです。ある日、半分遊びがてら、T4粒子を希釈した抗血清液と混ぜて観察しました。方法は2話で触れたネガティブ染色でやりました。何かやたらに汚い画像が見えるのですが、でもよく見ると、ウイルス粒子が雪だるまのように抗体で覆われてるとしか思えないような像がたくさん観察されました。
当時T4に対する抗血清は感染に必要な細菌表面への吸着器官である尾毛(tail fiber)に対する抗体のみが含まれていると、信じられていたので、わたくしの得た電子顕微鏡はまず汚い画像の典型とでも解釈されるものでした。
この写真を机の上に置いておくと、その画像のみたこともない汚さがもの珍しいのか、デスクの脇を通るラボのいろんな人達が、これはなんなのだ、と聞きます。わたくしは、これはファージ粒子に抗血清をふりかけると、こんな風にsnowmanのように見えるんだと説明するのですが、みな首をふりふり去っていきます。
口惜しくなって、どうしたらそうだと証明するか、2日ほど考えました。そして思わず膝をたたくような良いアイデアを思いついたのです。
つまり毎日使っているファージ変異体(ナンセンス変異なので特定タンパク質が欠失している)の抽出液とこの抗血清を混合すれば、変異体のタンパクに対する抗体があれば、それだけ生き延びるのではないか、その生き延びた抗体がファージ粒子のどこか特別なところに結合しているのが観察できるのではないか。このアイデアは、大当たりでした。
見事に頭、しっぽ、首、尾毛の先端、膝部分などを作るタンパク質が沢山の変異体抽出液を用いて、またたく間に同定できました。2か月ほど馬車馬のように働きました。論文を送ったらこれは「小傑作」だからこのまま公表せよというありがたいレフェリーコメントを貰いました(J Mol Biol 1970 51:411-421)。汚い画像が一転して、思い出深い研究になりました。またこれは特定遺伝子産物に対する免疫電顕法の始めての研究となったのでした。
今わたくしどもの研究室では染色体のいろんな側面を明らかにする実験研究をやってるのですが、何がきれいで何が汚いのか、データを偏見なく見ることの難しさをしばしば感じます。もっともらしい定量データが実はひどく汚いものかもしれませんし、わずかなパーセントの細胞しか示さないような変異体やRNAiの表現型がmessyなようで実はたいへんな発見なのかもしれません。
蛍来いではないですが、汚いデータよ、やってこいです。
ところで、明日は明日の風が吹くとうそぶいていた30代が懐かしいと言う、何回か前のわたくしのブログに、コメントがありました。それで背景説明をすると。
この30代はまだかなり前半で、わたくしが面倒を見る正規の院生もゼロの頃で、論文もsingle authorで書いていた時代のことです。
最近、single authorの論文は滅多に見ませんね。いまいちばんかっこいいかもしれませんね。