橋下徹大阪市長の出自を取り上げた週刊朝日の連載が打ち切りとなった問題で、連載を執筆したノンフィクション作家の佐野真一さんは1日、開高健ノンフィクション賞と石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の選考委員を辞任する意向を示した。東京都内で開かれた出版関係者の勉強会にゲストスピーカーとして参加し「差別を助長させる記事だった。万死に値する」と述べた。
同時に「この問題で多くの方に多大な迷惑を掛けた。記事のタイトルが橋下氏の出自と人格を安易に結び付ける印象を与えた」と謝罪。
これは東京新聞の記事ですが、いさぎよい、見事な謝罪と思いました。彼にも言い分は沢山あるのでしょう。とくに見出しは誰がつけたのか、彼ではないのかもしれない、でも自分の名前で出た以上いまさら言い訳してもしかたない、と。わたくしはこの方の書かれたもの決してすきではありませんが、こういうふうに明解に詫びる態度は立派だな、と思いました。
わたくしも実は最近、謝罪しています。このあいだの12月の分子生物学会の会合でのことです。例の東京大学の研究室での多数の捏造論文がでたラボの教授が学会の若手教育の委員に就任したときの学会の倫理委員長はわたくしでして、委員任命に関わるひとりとして責任を強く感じるという謝罪文がそこで出て、それにわたくし同意しております。この不正データを含む多数の論文がいかにして発表されたのか、その経緯はまったく公にされていませんので、なにかを論評するための材料がほとんどないのです。論文のなかには著者の申し入れで撤回されたり訂正されたりということで、当該ジャーナルがその旨、アナウンスはしていますが、全貌に関わる内容は東大からの報告待ちです。この段階ではわたくし自身、非難すべきなのか同情すべきなのか、その中間なのかわからないのです。つまり当該教授のかかわりがご本人の説明以外は判然としないのです。説明をそのまま信じるわけにもいきませんし。
最近は物言えばくちびる寒しの時代となり、こういうことはなるべく黙っている方が楽なのですが。気楽なものいいや、議論が難しい社会の気風となりました。また、謝罪をするところをメディアがすごいいきおいで取材にいいきます。謝罪が一番のニュースともなる日本の社会ともなりました。とりあえず深々とお詫びするのがまずやるべき姿勢となっているようです。わたくしの場合も、本当に申し訳ない、すみませんでしたというお詫びとなっています。でも、とかしかし、とかは言わないのです。