大津のほうでは雪だそうです。
こちらは天気は青空と雲が半々で日光もあり悪くないですが、でも風はかなり冷たい。
ただ歩き出して30分もたつとすこし汗ばみ快適となり,沖縄の一年でいちばん屋外の運動に適したシーズンとも言えます。
さて、最近ある大学院生(沖縄の学生ではない)とつきあっているうちに、ひどく簡単なことですが、学んだことがあります。これだけ長い年数、大学院生とつきあってこんな簡単なことを学ぶとは、とわれながら驚いています。
どういうことかというと、なにかについて、分かりませんと言える、のは案外高級な知的発言なのだということなのです。あったりまえでしょうと、思いますか?
わからないと言うよりは、こうでしょう、ああでしょう、と断定的にものを言うほうが頭が動いているように見えます。
でも何かを発言しているのは、いろいろ考えたうえでの結論を言っているのか、それともその言ってることひとつしか思いつかないのかもしれません。そのひとつしか思いつかないことを断定的に言ってるだけなら、複数のことを考えてどちらかとも決めかねて、分かりませんというよりはずっとプリミティブな発言になってしまいます。
つまり発言について、
A, その発言以外のことは思いつかない
B. 複数の可能性があることを考慮して、断定は無理なので、わからないという。
C. 複数の可能性を調査、探求して,そのうえで「ほぼ断定的に」発言する。
わたくしは、大学院生の年齢まで知的活動をやって来て人生経験もそこそこなら、Aというケースは最初から除外していましたが、どうもそうではない。自信ありげに発言していても、じつはいろいろな可能性を考慮したうえでの発言ではまったくないことが、わかって非常に愕然としています。
そうか、そうだったのか、それで色々なことが理解できました。
Aのひとは周囲で日本社会では案外嫌がられますが、米欧社会では結構いけてしまう人たちもいます。わたくしが折々にアルジェブラボーイと一括して呼んでいる連中なのですが。そういえば日本社会でも偏差値のきわめてたかい中年層を先頭に増えて来ているのかもしれません。
ところがさらに考えているうちに、このAでもまだ高級で、実はゼロとでも呼ぶレベルの、ほとんどなにも発言しない人々が増えているのではないかと思いだしてきました。
つまりAというのは本当は水準が高いので、社会では責任がある地位につきがちとなる。なぜなら、ゼロレベルが多数になってしまうからです。
実はゼロレベルのひとたちも、わからないと言います。ですから、ゼロレベルもBレベルもちょっとみには区別がつかない、のです。
Cレベルも、詳しく話を聞かないと、Aレベルと区別がつかないのです。
そういうわけで、なにごとも詳しく相手の話を聞かないと本当はどういうレベルの意見なのか分かりにくいのです。