子供度について

優れた創造者は子供のような新鮮な感覚をいつまでも持とうとするものです。努力しないで持ち続けられる人もいれば、そうとうに努力しなければ子供らしさを維持するのは無理な人もいるでしょう。
岡本太郎などはそういう子供度の高そうな人でしたが,それでも晩年に芸術は爆発だと、テレビコマーシャルにまで出て叫んでいたのは、意識して自らを励ましていたのかもしれません。棟方志功も年とともに昂じるというのか、しゃべりまくりながら版画を刷る姿はすごい雰囲気でした。
こういう振る舞い自体がこどもぽいとは思わないのですが,そうとうに年をとっても子供度が高ければそんな感じになってくるのだと思います。
しょせん、こどもそのものの純粋にしてあどけなさが残るような姿を人生70年を過ぎた人間がおなじように示せるはずがないでしょう。見かけで分かる,子供度は自分の気持ちにそって行動する訳ですから,分別がない、自分勝手,羞恥心が足りない,などと思われる行動に、みえるのでしょう。

司馬遼太郎氏の書かれたものを読むと,小説を書くのにも,子供度が相当ないと駄目なようです。子供度が低くなると,小説は書けないと言っています。
すくなくとも、司馬氏のばあいにはそうなのだろうとおもいます。ご自身でも正直にそのあたりのことを書いています。子供度が低くなると、小説を書くのがばからしいというのか、その気持ちになれないのだそうです。司馬氏の言葉をかりれば子供的エネルギーでかれのいろいろな小説は書かれたのだということになります。
小説を書かなくなってからも,たくさんの評論や紀行記で新しい境地をひらいたのでしょうが、なぜそのしごとは子供度が低くてもできるのか,そのあたりの説明はありません。
わたくしなりに、解釈をすると前人未到のだれもいない世界での仕事をこころざすためには結局好奇心が異常と言えるくらい高くなければ行けないのですね。しかもこの好奇心は年をとるにしたがって、発揮することが困難になるのですね。束縛が多いのです。
司馬遼太郎氏はたぶん束縛を甘受してその範囲でできる評論のような仕事に移ったのでしょうか。そういう意味では司馬氏の生涯では,分別が勝ったのでしょうか。

科学の世界はもう少し楽な気がします。子供度がそうとう高くてもそれほどの束縛があるともおもえません。その点,芸術家の中では、絵画とかに似てるかもしれません。

谷崎潤一郎が晩年色々性的なものを書いて物議をかもしたりするような経験はしないですみます。
ただ問題は科学者は一部を除けばその生をまっとうするはるか前にその現場から追い出されてしまうので、真の意味での晩年を経験することができないのですね。

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